『ハワの手習い』+『撃たれた自由の声を撮れ』試写鑑賞。打ちのめされて痛み入ることから逃げては行けないと思わされるドキュメンタリー
アフガニスタンを舞台に、女性監督がそれぞれ監督したドキュメンタリー『ハワの手習い』と『撃たれた自由の声を撮れ』の試写を鑑賞した。

配給の東風さんは2作品同時の試写を試みて展開するというなかなか異例な状況だが、それもそのはずこ二つの作品は同じアフガンを舞台にした共通の題材、そして女性監督という同様のシチュエーションながら、作品のアプローチや撮り方は表裏一体とも言うべきか、全く異なるそれだからだ。2作品を連続で見ることでその味わいは更に深くなると思う。
どちらもアフガンに迫るタリバン政権の存在による圧力が見え隠れしている。『ハワの手習い』はそれを直接的ではなく、あくまで間接的にそれらを描写し、『撃たれた自由の声を撮れ』はデモに直接参加している様子を危険を顧みずタリバン側にカメラ(スマートフォン)を向けている。
丁寧なカメラアイと構成で紡がれた『ハワの手習い』と、乱暴で当事者性の強い映像が繰り広げられる『撃たれた自由の声を撮れ』は2作セット
で観ることで悲惨なアフガニスタンの中でタリバンによる強権の中で生きる女性たちの姿の輪郭を強く目撃することになる。
見終わって、打ちのめされた感覚が強い。
どちらの作品にも「私が撮らないといけないのだ」という使命にも似た何かがあったからだ。
それだけビデオ作品を撮るということが、生き死にと直結しているという意味でも、この島国の日本に住む私はアフガニスタンで生きる監督たちと比べて能天気に生きられている自分のことを顧みたくなる。
『ハワの手習い』は非常によく練られた作品でもある。
構成や自分自身の存在を客観視するように登場させる手法、及びナレーションも含めて監督の語り口の独特さが魅力的な作品だ。
カメラを持っている自分を鏡で映す。そこに内省的に入るナレーション。ビデオジャーナリストになった自分自身の紹介だが、この国でビデオジャーナリストになれたのはそれこそ奇跡のような巡り合わせと言いようがないことに自覚的だ。母の尽力があったからこそだ。
まともな教育も受けられず13歳で結婚をさせられた母・ハワにカメラを向ける。母のおかげでやりたい仕事が出来ている。その恩返しをしたいとばかりにハワのこれからを映画にしようとする。そうした私的な動機から一転、やはりどうしたって国の社会性を帯びてくる。
カメラ、ハードディスクを国外に持ち出さなくてはならなくなる事情、そうした本人の葛藤と母の人生を肯定するためにはこれからも映像を撮らなくてはならないという想いが引き裂かれるようなアフガンの現状には見ていてがっくし来るものがある。
綺麗に映し出されたカメラアイ、美しい雪景色や、ハワの佇まいなど映像としての各ショットは完成度が高く魅惑的だ。
故にカメラに映っていないタリバン政権の存在が見え隠れする。
それをむしろ直接的に撮影しに行ったのが『撃たれた自由の声を撮れ』だ。
タリバンに対するデモ更新に参加する女性たち。
支配的なタリバンに恐る恐るカメラを隙間から撮ろうと試みる。
顔を出せなかったりする中、スカーフでギリギリ身元を隠しながら、カメラの前で抵抗の声明を表明する。
『ハワの手習い』とは正反対の荒々しいカメラアイとビデオアクティビティの側面が非常に強い作品になっている。
この作品に強く根付くのは「次の世代に同じ思いをさせたくない」という監督の強い意志だ。
戦火の中で死ぬと思う、命を投げ打つ覚悟でも抵抗するとの意思を感じるカメラ。
デモに参加すれば催涙スプレーで目をやられたりと直接的な暴力を受けたりする。
目を背けたくなる状況から、目を背けさせない。
これがアフガンの現実なんだと映し出そうとする意思を感じる。
その当事者性と現実に打ちのめされる。
どちらもアプローチは違う。
それでもアフガニスタンの現状は知ることができる。
カメラの役割も目的も違う中で、そのどちらにもカメラで映し取ることの意義を超えた使命を感じる。
ドキュメンタリーを作ることの意思と、今こうしてカメラで伝えることと自らの命が天秤にかけられる国があるということを知るだけでもいい。
まず劇場で打ちのめされることから始まることもあるんじゃないか。そんなことを感じました。
8月1日、15にちとそれぞれ公開が始まるそうです。是非2作品観ることをオススメします。
