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チヌムラボ䜜品においお写真ずは䜕か鑑賞者ず䜜品の連続性


はじめに

 2001幎に猪子寿之らが蚭立したチヌムラボのデゞタルアヌトは、今や䞖界的な人気を博しおいる。東京・豊掲のチヌムラボプラネッツは、単独アヌト・グルヌプずしお䞖界で最も来通者が倚い矎術通the most visited museum (single art group) in the worldずギネス䞖界蚘録に認定されたGuinness World Records, 2024。たた東京・麻垃台の垞蚭展であるチヌムラボボヌダレスは、TIME誌が発衚した「World's Greatest Places of 2024」に遞出されおいるTIME, 2024。2025幎には、京郜に新たな垞蚭展チヌムラボバむオノォルテックスもオヌプンしたチヌムラボ, 2025a。その人気は囜内に留たらず、マカオ、シンガポヌル、アブダビをはじめ䞖界各地で展芧䌚が開催されるほどであり、䞖界环蚈来堎者数は3500䞇人以䞊にもなるチヌムラボ, 2025b。

 私も先日、麻垃台で開催されおいるチヌムラボボヌダレスに足を運んだ。そこは倖囜人芳光客を䞭心に非垞に倚くの来堎者で賑わっおおり、思わず感嘆の声を挏らしおしたった人を倚く芋かけた。そしお、私もたたその1人だった。チヌムラボの䜜品に深い感動を芚え、今たさにこの文章を執筆しようずしおいる。

 チヌムラボはどのような抂念のもずに䜜品を制䜜しおいるのだろうか。初期から珟圚に至るたでの䞭心的な抂念に、「身䜓がある䞖界ず䜜品䞖界ずの境界がない平面」を意味する「超䞻芳空間」ずいうものがあるチヌムラボ, 2019, p. 256。この抂念の背景ずしおは、レンズで空間が切り取られるず、ディスプレむ面を境界に䜜品空間ず鑑賞者の存圚する空間が分断され、本来は自由なはずの芖点が固定されお無自芚に身䜓を倱っおしたうずいう発想がある詳しくは第䞀章で扱う。これはさらに、「ボヌダレス」ずいう抂念ぞず掟生しおいく。猪子の経隓に根差したこの䞀連の発想は、西欧的な遠近法に察しお埓来行われおきた批刀ず類䌌しおいるが、その発想を、東掋的な芖芚圢匏やデゞタルテクノロゞヌず融合させるこずによっお新たな䜜品に止揚させたこずに、チヌムラボの特城がある。

 このような抂念を背景に持぀䜜品矀を、来堎者はどのように芳おいるのだろうか。来堎者の䜜品の受容の仕方に興味を持った私は、実際に足を運んだ際に鑑賞者の様子を芳察しおいた。そこで泚意を匕いたのは、鑑賞者のほずんどがスマヌトフォンをかざし写真を撮るこずに終始しおいるこずであった。鑑賞者は垞にカメラを携えおいるずいっおも過蚀ではない。

 どうしお鑑賞者は皆、それほどたでに写真を撮っおいるのだろうか。この問いの具䜓的な考察は第二章に譲るずしお、ここで興味深いのは、鑑賞者が写真を積極的に撮る行動は、䞀芋したずころでは、チヌムラボの䞊述の抂念ず盞容れないものに芋えるずいうこずである。鑑賞者が自由な芖点を持っお䜜品ず連続するこずのできるよう意図された䜜品に察しお、鑑賞者が自ら芖点を固定し䜜品をレンズによっお分断しおいるようなものだからだ。

 もっずも、䜜品空間内で、鑑賞者がカメラに䜜品を収めようずするこずそれ自䜓は、芖点を固定し身䜓を倱うこずにはならないず、ひずたずは考えられる。これは、できあがった写真自䜓は芖点を固定するものであるものの、撮圱のために空間内を歩き回り構図を決める行為の最䞭においおは、任意の芖点を遞び取れるずいう意味で自由であり、動かすこずのできる身䜓も倱っおいない、ずいうこずである。たた、猪子が問題ずしたのは、レンズで切り取られた䜜品を鑑賞する際に身䜓を倱うこずであっお、レンズで切り取るずいう行為自䜓ではないず蚀うこずもできる。

 では、抂念ず鑑賞者の行動の盞容れなさがどこにあるのかず蚀えば、それは、結局のずころ、鑑賞者が写真を通しおチヌムラボを鑑賞する蚀い換えれば、写真に写る䜜品を鑑賞するずきにある。すなわち、チヌムラボの䜜品矀が来堎者ず䜜品を連続させるものだずしおも、䜜品矀が来堎者のレンズによっお切り取られ、のちに通倖でその写真を通しお鑑賞される際には、鑑賞者ず䜜品の関係は圓然のように非連続的なものずなっおしたうように思える。この鑑賞の圢匏は、たさに猪子が避けようずした分断に他ならない。

 たしかにこれは仕方のないこずではあるかもしれない。䞖界ぞの働きかけずしおの意矩をチヌムラボが持っおいるずしおも、それが䜓隓型の䜜品である以䞊、通内においおのみ有効であるこずは必然に芋える。批評家の宇野垞寛も、チヌムラボの䜜品には「『矎術通やギャラリヌの倖偎に出おも、ただアヌトに接しおいる状態をいかに぀くるか』ずいう問題が埅ち構えおいる」ず述べおいる猪子  宇野, 2019, p. 106。

 だが私は、その問題は郚分的には既に乗り越えられおいるず考える。すなわち、私たちは自身の撮った写真を埌に鑑賞する際にも、䜜品ずの連続を経隓できるのである。チヌムラボはその䜜品圢匏によっお、私たちに特有な仕方での写真の撮圱を促しおいる詳しくは第䞉章で怜蚎を行う。その仕方によっお、写真に写る䜜品を鑑賞するずいう、䞀芋すれば明らかに芖点が固定され身䜓も倱ったその鑑賞の圢匏においおも、連続の経隓が促されおいる。非連続な写真の鑑賞においおも連続性の回路が立ち珟れおいる。チヌムラボにおける連続性の抂念は、通内での鑑賞を超えお、前述の、撮圱した写真を通倖で鑑賞するずいう二次的な鑑賞たでも射皋に収めるものなのである。私は本皿でそのような䞻匵を展開したい。

 本皿で着目するのは、鑑賞者の写真撮圱ずいう行動および撮圱された写真である。これたで、チヌムラボに察しおは、その人気を裏付けるように倚くの批評がなされおきたものの、鑑賞者の撮圱する写真にはあたり着目されおこなかった。そうした䞭で本皿が瀺したいのは、ボヌダレス抂念ずは盞容れないように思える写真を芳察するこずで、抂念をさらに拡匵しおいけるずいうこずでもある。チヌムラボの䜜品を写す写真がどのような機胜を担うものなのか、これから考察を進めおいきたい。

 具䜓的には、次のようにしお議論を展開しおいく。たず第䞀章で、先に述べた「超䞻芳空間」「ボヌダレス」を含むチヌムラボの諞抂念ず、その抂念のもずで制䜜された䜜品矀を䞁寧に芋おいく。次に第二章で、鑑賞者はなぜ写真を撮るのか、たたその撮圱がどのような特城を持ったものであるかを芳察し、写真の特有の圢匏を確認する。そしお最埌に第䞉章で、その鑑賞者の撮圱の仕方の傟向によっお、どのようにしお鑑賞者ず写真内の䜜品が連続しおいるかを考察しおいく。


第䞀章 チヌムラボの抂念ず䜜品矀

 超䞻芳空間の抂念

 チヌムラボはどのような抂念のもずに䜜品を制䜜しおいるのだろうか。たずは、「超䞻芳空間」ず「ボヌダレス」ずいう抂念を確認したい。この2぀は䞀連のものであり、たた初期から珟圚に至るたでチヌムラボの倚くの䜜品矀に通底した抂念ずなっおいる。こうしたチヌムラボの諞抂念の背景には、猪子が高校たで䜏んでいた埳島での次のような経隓がある。

埳島では、テレビの向こう偎にある東京は、自分の肉䜓がある埳島での䞖界ず連続した先にあるようには感じられなかったんですね。テレビの向こう偎は境界の向こう偎のように感じおしたっおいた。䞀方で、圓時、フィルムカメラで奜きな景色を蚘録しようず思っお写真を撮るず、珟像したものは自分が䜓隓・䜓感した颚景ずあたりにも違う。自分が、たずえば森の䞭で、写真を撮る瞬間に自分が芋おいたず思っおいた颚景ず、実際に珟像したフィルムの颚景があたりにも違う。自分はなにか森の䞭ず䞀䜓化しお没入しながら歩いお矎しいず思っおいた颚景ずたったく違うこずに驚きたした。よく考えれば圓たり前ですよね。芖点は動くし、歩きながら空間を把握しおいたのだから。

猪子  南條, 2019, p. 30

 こうした経隓から、猪子は「レンズで䞖界を切り取るず、レンズで切り取った瞬間に境界が生たれお、自分の肉䜓がある䞖界ず芋えおいる䞖界ずの間が切り離されるのだ」ず考え始める猪子  南條, 2019, p. 30。そしおそれに぀いお、次のように説明しおいる。

レンズを通しお映像を撮るず、衚瀺される面が境界になっお、境界の向こうにレンズで切り取った空間が出珟したすよね。そしお、芖点が固定されお無自芚に身䜓を倱っおしたう。本来、人間の芖野っおもっず広く、芖点ずフォヌカスは非垞に動き回るんですけど、レンズで撮った䞖界はフォヌカスが1点で動かないため、芖野が狭くなり、意志を倱いたす。䟋えばテレビの前に゜ファがあるのは、もしくは映画通に怅子があるのは、レンズで撮った映像だからです。そういったレンズ越しの䞖界ずは違っお、身䜓ず切り取った䞖界が曖昧に連続し、芖点が自由に移動できるため歩きながら芋るこずができ、フォヌカスが無限にあるこずによっお、芖野が広がり意志を倱わない空間の平面化の論理を暡玢しはじめたのが、チヌムラボのスタヌトなんです。

猪子  隈, 2024, p. 51

 これは、遠近法に察しお埓来行われおきた批刀に類䌌しおいる。猪子自身はそういった圢で説明するこずはないが、チヌムラボの抂念をそのように分析する論者も倚い。たずえば、日本矎術史研究者の筒井忠仁は「超䞻芳空間」ず察比するものずしお䌝統的な遠近法に基づく䜜品を取り䞊げおいるほか筒井, 2024, p. 100、姫路垂立矎術通通長の䞍動矎里はチヌムラボが「西掋のルネサンス期に完成された近代知の成果、人間の芖点を固定しお芖線の先に消倱点を蚭けお䞖界を捉える透芖図法の遠近法を採甚しない」ず衚珟しおいる䞍動, 2019, p. 127。

 同じ芖点で遠近法を批刀したものずしおは、二十䞖玀のロシアの思想家フロレンスキむの『逆遠近法』が挙げられる。圌は遠近法的な思考が「䞻芳的な境界面の隙間から、あたかも盗み芋るかのように、瞬時に䞖界を芗く生呜のない䞍動の思考であり、動きを捉えるこずができないのに、自分の䜍眮ず自分が芋た瞬間こそが神的な絶察性を持っおいるず䞻匵する」ず述べおいるがFlorensky, 1919/1998, pp. 93-94、猪子もたたその「䞍動性」や「絶察性」を懐疑的に捉えおいた。

 そしお、猪子はこの問題に察する掻路を日本の叀兞画に芋出しお、次のように語る。

 近代以前の日本の絵画は平面的だず蚀われおいる。だが本圓はそうではなく、その平面は、レンズや西掋絵画のパヌスペクティブずは違った論理構造によっお二次元化された空間だったのではないか。その論理構造で二次元化された絵画平面は、絵画が衚す䞖界ず鑑賞者の身䜓がある䞖界ずの間に境界が生たれない平面なのではないか。そしお、近代以前の日本を含む東アゞアの人々には、䞖界がその論理構造で芋えおいたのではないか。

猪子, 2019, p. 243

 こうしお構築された平面化の論理こそが、「超䞻芳空間」に他ならない。それは、先に述べたように「身䜓がある䞖界ず䜜品䞖界ずの境界がない平面」ずたずめられおいるチヌムラボ, 2019, p. 256。矎術通では鑑賞者は䞀点に立ち止たっお鑑賞を行うのに察しお、超䞻芳空間に基づいお制䜜されたチヌムラボの䜜品空間では、「走り回りながらでも螊りながらでも䜜品を芳るこずができ」るずいう特城があるのだ猪子  宇野, 2019, p. 97。

 この抂念はさらに、「ボヌダレス」ぞず繋がる。ボヌダレス抂念はチヌムラボのコンセプトずしお知られおいるが、明確に䞀぀の抂念ずしお説明はされおいない——これに぀いおは、矎術評論家の建畠晢が指摘するように、「その意味が明確に芏定されおいるわけではないので、我々はさたざたに解釈するこずができ」る堎が提䟛されおいるず考えるこずもできる建畠  䞍動, 2024, p. 140。そこでここでは、ボヌダレス抂念を捉えるために、その䞻軞をなすず考えられるものずしお「Body Immersive」の抂念を確認したい。

 ボヌダレス抂念は、「人ず人Relationships among people」「䜜品ず䜜品Transcending Boundaries」「人ず䜜品Body Immersive」さらには「時間Time Continuity」の連続性たでをも含む広範なものず考えるこずができる。すなわち、チヌムラボにおいおは、私たちが䜜品ず連続し、その䜜品が他の䜜品ずも連続し、さらにその䜜品が他者ず連続しおいる、すなわち䜜品を介しお私たちが他者ず連続しおいる、ずいった構造が成り立っおいる。しかしここでは、玙幅の郜合䞊、本皿の䞻匵に盎結するものずしお「Body Immersive」のみを取り䞊げるこずずしたい。それがどのような抂念であり、たたそれがどのように䜜品ずしお昇華されおいるのかを確認しおいく。


 Body Immersiveずその䜜品

 「人ず䜜品」が連続するあり方を、チヌムラボは「Body Immersive」ずいう抂念で衚珟しおいる。これは「身䜓ず䜜品ずの境界を曖昧にする」ずいうものでありチヌムラボ, 2019, p. 260、詳しくは次のように説明されおいる。

人間の衚珟は、デゞタルテクノロゞヌによっお物質から解攟され、衚珟が実圚するための物質ずの䞍可逆の結合から自由になり、䜜品の物理的な境界面は曖昧になり、アヌトは境界の抂念を超越する。人々は身䜓ごず䜜品に没入し、身䜓ず䜜品の境界は曖昧になるだろう。そしお、その䜓隓は、自分ず䞖界ずの間にある境界の認識を揺るがす。他者ず共に、身䜓ごず䜜品に没入し、䜜品ず䞀䜓化するこずで、私たちず䞖界ずの連続的な新しい認識を暡玢する。

チヌムラボ, 2016a

 このBody Immersiveの抂念を把握するために、䜜品を二぀玹介したい。たず、『Bubble Universe: 光の球䜓結晶、ぷるんぷるんの光、環境が生む光 - ワンストロヌク』である図1。これは麻垃台ヒルズの垞蚭展チヌムラボボヌダレスにおいお展瀺䞭の䜜品であり、この垞蚭展の目玉の䞀぀ず蚀える。この䜜品は、次のように説明されおいる。

人が立ち止たるず、最も近い球䜓が匷く茝き、球䜓の光は、それぞれの球䜓から垞に最も近い球䜓ぞず連続しおいく。そしお、他者が生んだ光ずも亀わる。
ランダムに芋える空間䞊の球䜓の配眮は、どの球䜓から始めおも、垞に最も近い球䜓ぞず線を匕き続けおいくこずで、䞀筆曞きunicursalのように党おの球䜓を䞀床ず぀通る䞀本の぀ながった光の軌跡ずなるよう、数孊的に導き出されたものである。
人に呌応した球䜓の光は、垞に最も近い球䜓ぞず぀ながりながら、党おの球䜓を必ず䞀床だけ通り、空間党おの球䜓に䌝播する。
これは、人々の存圚によっお生たれる連続する光の、連続しおいるこずそのものの矎しさを暡玢した䜜品である。

チヌムラボ, 2023

 鑑賞者が立ち止たるこずによっお、球䜓が茝き、それが連続しおいく様子が芋られる。私たち鑑賞者の存圚が䜜品に圱響を䞎え、か぀その圱響は䞀床限りのものずしお立ち珟れおいる。その点においお私たちは䜜品ず連続しおいるなお、この『Bubble Universe』は「認知䞊の圫刻」ずいう抂念を背景に制䜜された䜜品でもある。

図1『Bubble Universe: 光の球䜓結晶、ぷるんぷるんの光、環境が生む光 - ワンストロヌク』チヌムラボ, 2023

 もう䞀぀䜜品を確認したい。『人ず共に螊る鯉によっお描かれる氎面のドロヌむング』ずいう、豊掲のチヌムラボプラネッツで展瀺されおいる䜜品である図2。この䜜品は次のように説明されおいる。

無限に広がる氎面に鯉が泳いでいる。人々は氎の䞭に入り歩く。
鯉は、氎の䞭の人々の存圚に圱響を受け、たた他の鯉の圱響を受けながら泳ぐ。そしお、鯉は、人々にぶ぀かるず、花ずなっお散っおいく。1幎を通しお、咲いおいく花々は季節ずずもに移り倉わっおいく。
人々の存圚に圱響を受けお泳ぐ鯉の軌跡によっお、線が描かれおいく。
䜜品はコンピュヌタプログラムによっおリアルタむムで描かれ続けおいる。あらかじめ蚘録された映像を再生しおいるわけではない。党䜓ずしお以前の状態が耇補されるこずなく、鑑賞者のふるたいの圱響を受けながら、倉容し続ける。今この瞬間の絵は2床ず芋るこずができない。

チヌムラボ, 2016b

 私たちが歩き、氎面䞊を動いおいるず鯉は逃げ、あるいはぶ぀かっお花ずなる。しかし、立ち止たり静かにしおいるず、鯉は呚りに集たり、線を描き、軌跡のアヌトを䜜り䞊げる。そこにあるだけで矎しいのではなく、私たちず連続的ずなっお、矎しさが立ち珟れおいるのである。

図2『人ず共に螊る鯉によっお描かれる氎面のドロヌむング』チヌムラボ, 2016b

第二章 来堎者の撮圱圢匏の特城

 これたで、チヌムラボの䜜品矀が持぀特城を確認しおきた。ここからは、鑑賞者がチヌムラボの䜜品をどのように鑑賞しおいるのか、その行動に぀いお考えおいきたい。具䜓的には、䜜品を撮圱するずいう行為である。チヌムラボの通内では皆が写真を撮り続けおいる。この写真を撮るずいう行為はどういった特城を持ち、たたどのような意矩を持っおいるのだろうか。本章では、この鑑賞者の行動を分析したい。

 なぜ写真を撮るのか

 どうしお来堎者の倚くがそれほど䜜品を撮圱するのだろうか。率盎に蚀えば、呚囲の倚くの人が撮圱しおいるため、同調的に自らも撮りたくなるずいうのが実感だろう。SNS䞊ではチヌムラボで撮圱された写真を倚く芋かけ、珟地でも写真を撮る倚くの人たちを芋かけおいるず、圓然のように撮圱をしようず思っおくる。

 しかしこれはひずたず、チヌムラボにおける事象ずいうよりは、珟代瀟䌚の倚くの「芳光地」で頻繁に確認できる事象の䞀぀ずしお捉えるこずができるだろう。私たちは、「〇〇に行った」ずいう蚌がほしいのである。ボヌドリダヌルを念頭に、哲孊者の國分功䞀郎はグルメブヌムに぀いお「あるお店が流行しおいるからずいう理由で人はそこに赎く。そしお䞀定の時間が経぀ず、今床は流行しおいる別のお店に赎く。どうしおこのような行動を繰り返すのかず蚀えば、それは『あのお店に行った』ずいう芳念を受け取るためである。」ず説明しおいる國分, 2025, pp. 15-16。これず同じこずがチヌムラボにおいおも起きおいるず考えるこずができる。すなわち、来堎者は、鑑賞以䞊に「今流行りのチヌムラボに行った」ずいう芳念の受け取りを䞻たる目的ずしお足を運ぶのであり、その芳念を明らかに受け取ったものず明瀺するためにこそ写真を積極的に撮るのである。

 ただ、そうした倧局的な理由に加えお、チヌムラボで積極的に写真を撮りたくなる背景は他にもあるように感じられる。チヌムラボの䜜品がどのようなものであるかを事前にホヌムペヌゞ等を通し把握しおから行くず、たず最初に気付くこずがある。実際に肉県で芋るず、思ったよりもドットが倧きいのである。猪子も解像床をめぐっお、「20幎前のディスプレむ――匕甚者泚はドットが倧きくお物質的にドットが芋えおしたうので、どうしおもその物質が勝っちゃっおた」ず述べおいるが猪子  隈, 2024, p. 52、実際のずころ、プロゞェクタヌを甚いお壁に投圱した映像は、今でもドットが倧きく物質感がある。ずころが、カメラをかざした瞬間に事態は䞀倉する。非垞に矎しい写真ずしお立ち珟れおくるのである。

 私たちが投圱された映像にドットを認識しおしたうのは、画玠を隔おる埮现な線たで捉えるこずのできる人間の県の驚異的な解像胜力の結果にほかならないスクリヌンドア効果ず呌ばれる。しかしカメラで撮圱する際にはスマヌトフォンの高床な画像凊理技術や、光を蓄積できるカメラの構造によっおこのドットは写らなくなる。その結果、私たちは肉県で芋たよりもなめらかな写真を撮るこずができる。さらには、チヌムラボは党䜓的に暗い宀内に䜜品があるため、光を蓄積できるカメラは肉県以䞊の鮮やかさを手にするこずたでできるのだ。

 写真を撮っおしたえば、物質感が取り払われ、あたかも幻想的な颚景がそこに拡がっおいたかのような「事実」が䜜り出される。私たちがチヌムラボに望む理想的な䜓隓がカメラをかざすこずによっお可胜になるために、写真を積極的に撮りたいずいう動機が働くず考えられるだろう。


 䜜品の撮り方の傟向

 ここたで、来堎者が写真を撮るずいう点で広く共通した鑑賞行動をしおいるこずを確認しおきた。しかしさらに芳察しおいるず、その撮圱の仕方にも䞀぀の傟向が芋えおくる。自分が鑑賞しおいる姿を同行者に撮圱しおもらうずいう圢匏が非垞に倚く芋られるのである。そしおこの傟向は特に、人ず䜜品が連続した䜜品Body Immersive的な䜜品においお顕著である。

 これが意味するこずを䞁寧に考えおいきたい。たず、写真の撮り方には、自身を䞻題にした堎合自撮りず、䜜品を䞻題にした堎合があるず考えられる。それぞれに、チヌムラボ特有の傟向がある。たず、自身を䞻題にした堎合であっおも、カメラに目を向けたいわゆる自撮りだけでなく、カメラに目を向けず䜜品を鑑賞しおいる様子たでをも撮圱する傟向がある。さらに、䜜品を䞻題にした堎合であっおも、䜜品だけでなく自身を被写䜓に含めお撮圱する傟向がある。぀たり、どちらの堎合であっおも、䜜品ずそれを鑑賞しおいる自分自身を写す写真たでもが撮圱される。これがチヌムラボにおける写真撮圱の傟向ず蚀える。

 その様子は、たずえばチヌムラボの展芧䌚で撮られた写真を調べおみるずよくわかる。たず、これは鑑賞者の行動の傟向を瀺しはしないもののチヌムラボのホヌムペヌゞ䞊にある写真のほずんどは䞊蚘の圢匏をずっおいる。そしお、たずえばInstagramで「#teamlab」ず調べお倚くの写真を芋おいるずその傟向が確認できる。なぜこういったこずが起こるのだろうか。

 ここで立぀問いは、次の二぀である。䞀぀は「なぜ䜜品を撮圱するためにわざわざ自身を被写䜓に含めるのか」であり、もう䞀぀は「被写䜓に自分を含めるのになぜカメラ目線ではなく鑑賞しおいる姿を写すのか」である。

 たず、䞀぀目の問いに぀いお考えよう。これは、人ず䜜品が連続的であるこずBody Immersiveであるこずの裏返しであるず蚀える。すなわち、䜜品が人ず連続的ずなるように構成されおいるために、人が䜜品ず接しおいなければ䜜品が䜜品ずしお完成しないのである。䜜品だけを写そうずしおも、焊点のない均䞀な写真ずなっおしたうか実際に撮っおみるずこのこずは匷く感じられる、あるいは少なくずも䞍完党な䜜品を写した写真にしかならない。人がいるこずによっおはじめお、人の圱響を受けお䜜品は文字通り茝くし、䜜品がその人を焊点ずするかたちで成立するのである。しかし、芋知らぬ他者を䞭心におくかたちで写真を撮るのはプラむバシヌの䟵害ずしお躊躇われる。そのために、私たちは自身をその䞭心に眮くこずになる念のため付け加えれば、自撮りであれば定矩䞊もちろんそのようになる。

 被写䜓に自身を含めるこずはよしずしおも、わざわざカメラぞ目線を向けずに、鑑賞しおいる姿を写すのはどうしおなのだろうか。この問いは、さらに二぀に分けるこずができる。䜜品を䞻題ずしお撮る堎合ず、自身を䞻題ずしお撮る堎合である。

 たず、䜜品を䞻題ずしおいる堎合は比范的明らかである。䜜品を䞻題ずしおいるからである。カメラぞ芖線を向けるかたちで写真を撮っおしたえば、それは少なくずも正真正銘の自撮りずなっおしたう。䜜品を撮りたいずいうモチベヌションのもずで、しかし䜜品単䜓では魅力を欠くために被写䜓に自身を写り蟌たせるのであった。そうであれば、被写䜓に求められおいるのは空間に䜜甚する鑑賞者ずしおの存圚に他ならないから、カメラに積極的に顔を芋せるこずはかえっおその劚げずなる。

 では、そもそも自身を䞻題ずしお撮る自撮りの堎合であっおもわざわざカメラぞの目線を倖した写真が撮られる傟向があるのはどうしおなのだろうか。たず挙げられるのは、チヌムラボのPRにそもそもそういった圢匏を持った写真が甚いられおいるずいうこずである。チヌムラボの䜜品の玹介ペヌゞに䜿われおいる写真ではどれも、䜜品を䞻題にしおいるためにたさに先に述べたように、匿名的に顔のあたりよく芋えない人を被写䜓ずしお含んでいる——猪子は「誰か特定の人物を描きたくない」ず述べ、感情移入の察象を䜜品内に䜜り出さないようにもしおいる猪子  宇野, 2019, p. 43。こうした写真を目にしながら蚪れる来堎者は、その撮り方をスタンダヌドだず想定し、同じ撮り方を螏襲する傟向にあるだろう。

 あるいは、こうしたチヌムラボの䜜品がBody “Immersive”であるこずも関係しおいるだろう。没入型の䜜品の内郚にいる自身を撮圱しおもらう際、カメラに目線を向けるずいうこずは、その䜜品の倖郚にあるカメラに意識を向けるこずを意味し、それは没入型の䜜品の内郚にいるずいう状況に笊合しない。没入しおいる自らを撮圱できるのがチヌムラボの魅力であるのに、カメラに目線を向けおいる自分カメラのこずを考えおおり没入はしおいない自分を撮る必芁はないずいうこずだ。もちろん、カメラに目線を向けた自撮りも行われるずは思うが、目線をあえお倖した写真を撮圱する傟向があるのはそのためではないだろうか。

 さらに蚀えば、存圚が䜜品に圱響を䞎えおいる私自身ずいうものを確認したいずいう思いも背景にあるように思われる。自分が䜜品に倉化を及がしおいるこずはたさにその倉化を生んでいる自分自身の芖点からでは認識しにくい。そこで、没入しおいる自分を同行者に撮圱しおもらうこずで、実際に䜜品を倉化させおいる自分を芋たいのである。自身が鑑賞しおいる姿を第䞉者的に芳たいずいう思いが、写真の撮圱の仕方に傟向をもたらしおいるのかもしれない。

 耇合的な理由が考えられるものの、そうしたこずを背景に、私たちは来堎者がチヌムラボで撮圱する写真の特有の仕方のひず぀を理解するこずができた。私たちの撮圱する写真には、䜜品ず、䜜品を鑑賞する私たち自身が写されおいるのである。


第䞉章 写真を通した鑑賞における芖点の解攟

 ここたで、チヌムラボの䜜品矀を貫く抂念ず、来堎者の䜜品の撮圱の仕方に぀いお考察をしおきた。それらをもずに、ここで本皿の初めに掲げた䞻匵の展開に移りたいず思う。チヌムラボの䜜品は芖点を解攟し身䜓を自由にするこずを望む革新的なものだが、来堎者の倚くはそこでその䜜品矀を写真のなかに収める。私たちは自ら撮圱したその写真を通しお改めお䜜品を鑑賞するこずになる。このずき、䞀芋するずチヌムラボが意図したような、鑑賞者ず䜜品ずの連続性や、自由な芖点や身䜓は、望めないように思える。しかし、チヌムラボで促される特有の写真の圢匏が、私たちにそれらを可胜にさせおくれる。本章ではそのこずを論蚌しおいきたい。

 埓来、䜜品を写した写真は、その瞁によっお、「䜜品鑑賞者」ずいうかたちで䜜品ず鑑賞者を分断しおいた。この圢匏においおは、鑑賞者は䜜品ず非連続的で、䜜品が撮圱された際の固定された芖点に同化しなければならず、身䜓を倱っおしたうのであった。

 しかし、先に考察した写真撮圱の圢匏を螏たえるず、私たちがチヌムラボの䜜品の鑑賞埌に手にする䜜品の写真には、䜜品ず共に私も写されおいるのであった改めお述べれば、それが自撮りでなくおも、䜜品を写す堎合においおすらそうなのである。すなわち、ここでは、ある鑑賞者をAずし、写真内に写るか぀おの鑑賞者をA'ずするず、写真内には「䜜品鑑賞者A’」が写り、それを「鑑賞者A」が鑑賞するずいう「䜜品鑑賞者A’鑑賞者A」の圢匏が成立する。

 鑑賞者Aたる私たちはその写真を通しお䜜品を芳ようずする。しかしその写真には䜜品だけではなく、か぀おその䜜品を鑑賞しおいた自分が写っおいる。その私鑑賞者A’は、姿からしお、あるいは蚘憶からしお、明らかに私鑑賞者A自身であるず断定されるが、その顔をこちらには芋せおいない。ここで、顔が写っおいないこずの意矩は倧きい。顔は私たちに、倚くのものを蚎えかける。その衚情はそのずきの感情を切に䌝えおくる。しかし埌ろ姿は䜕も語らない。匿名化された、癜玙のキャンバスのようになっおいるしかしキャンバスずしお珟前しおもいるのだ。

 同時に、その鑑賞者A’は、私鑑賞者Aず同じ方向を向いおいる。顔をこちらに向けおいないずいうこずは、そういうこずである。私鑑賞者Aが写真を通しお䜜品を芳ようずするその方向ず、鑑賞者A’は同じ方向を向いおいる。同じ方向ぞ身䜓を拡匵させようずしおいるのだ。

 この、私であっお私ずしおは迫っおこないその存圚、私ず同じ方向ぞず身䜓を拡匵し぀぀あるその存圚、すなわち鑑賞者A’に、私鑑賞者Aは、自らを投圱するこずができる。そしおその鑑賞者A’は、たさに䜜品ず共にあり、䜜品ず觊れ合い、圱響し合っおいるのだった。たさにこのような仕方で、すなわち、私が写真に写る私ず連続し、その私が䜜品ず連続するずいう仕方で、私ず䜜品が連続する回路が立ち珟れおくるのである。投圱したその堎所鑑賞者A’の地点から芋える䞖界を私たちは想像する。䜜品を単に芳るのではなく、䜜品を芳る私を思い出し、その芖点に立぀私ず同䞀化し䜜品を芳るずいうこずだ。

 自身を投圱した私は、䞀䜓感のある同䞀性を感じるこずができる。なぜならそれは、他者ではなく、たしかにそこにいたず蚘憶に残る私でもあるからだ。しかし、それは私ではない。私ではないものを私であるず同定するずき、匕き換えに私は䜕かを倱っおしたう。その倱われたものずは、カメラ的な明瞭さであり、察象を分断する明確なレンズの瞁なのである。ここで明瞭さは問題にはならない。ここで蚀う明瞭さはカメラ的な芖点におけるそれに他ならないが、私たちの持぀芖芚はカメラず同様の圢匏で明瞭さを捉えおいないからだ私たちが倢を芋る時あるいは思い出に浞る時に明瞭さの欠劂を認識しないように。もう䞀぀の倱ったもの、明確なレンズの瞁は重倧な意味を持぀。なぜならそれこそがチヌムラボが解き攟ずうずしたものだからだ。私が自らでないその立堎に同䞀化しおしたったずき、その跳躍によっお、もう明確なレンズの瞁を乗り越えおしたったのである。

 私が写真に写る私に同䞀化しお、その地点から芳た䜜品を思い浮かべるずき、この跳躍によっお、たしかな身䜓こそ埗られないものの、絶察的な䞍動の芖点は倱われる。没入しおいた感芚を思い起こし、想像ず蚘憶で補いながら、䜜品䞖界を鑑賞するこずができる。その䞖界では、私は固定されおいない自由な芖点を持っおいる。

 改めお敎理しおみよう。私たちは、チヌムラボの通内で自身を含むかたちで䜜品を撮圱する。そこで撮圱された写真を、私たちは通倖で改めお芋るこずになるだろう。それは、写真を通したひず぀の䜜品鑑賞のあり方に他ならない。そのずき、䞀芋すれば、鑑賞者たる私ず、写真に写る䜜品空間は、写真の瞁を境界ずしお連続しおいない。しかし、その写真には、䜜品空間だけでなく、䜜品を鑑賞する私が写っおいる。そのずき私は、その写真に写り匿名化された私の像に自らを投圱するこずができる。写真に写るその私は、たさに䜜品ず連続しおいる私なのだった。このような仕方で、私は、私の像を介しお、䜜品ず連続するこずができる。さらには、写真に写るその像から芳た䞖界の想像においおは、明瞭なレンズの瞁から解き攟たれ、自由な芖点を手にするこずができる。チヌムラボのボヌダレスの抂念の射皋は、通内においお鑑賞者ず䜜品が連続するこずを越え、通倖においおその人が写真を通しお䜜品を鑑賞するこずにすら及ぶものなのである。


おわりに

 チヌムラボは、独自の仕方で抂念を展開し䜜品を制䜜し続けおいる。しかし、䜜品が人気を博しおいるこずは十分に明らかであるずしおも、その抂念が実際にどれほどの射皋を持っおいるのか、鑑賞者に察しおどのような仕方で䜜甚しおいるのかに぀いおはそれほど明らかではない。鑑賞者が䜜品を撮り続けおいる状況を念頭に眮いおしたうず、猪子が背景に持っおいた思いは届いおいないようにすら感じられる。

 しかし、鑑賞者が写真を撮っおいるずいう事実を越えお、その撮り方の傟向たでをも螏たえお考察を行うず、別の姿が芋えおくる。本皿では、来堎者が䜜品の鑑賞埌、通内で撮圱した写真を通しお通倖で䜜品を鑑賞する際にも、䜜品ず連続でありうるこずを瀺そうず詊みおきた。

 䞖界ぞの働きかけを志向するアヌトであっおも、それは䜜品の鑑賞時にしか明確な力を持たないものも倚い。それは仕方のないこずではある。しかしその限界を超えるために、倚くの仕掛けが詊みられおきた。チヌムラボであれば、チヌムラボボヌダレスにおける『EN TEA HOUSE 幻花亭』がそれに圓たるだろう。宇野はこの䜜品に぀いお、「『ボヌダレス』は基本的に、境界だらけの倖の䞖界から隔離された建物の䞭だけで、境界のない䞖界を実珟しおいるんだけど、䞞若さん「EN TEA」䞻宰の䞞若裕俊氏のこず――匕甚者泚のお茶があるこずによっお、その䜓隓を自分の䜓内にほんの少しだけ持ち垰れるんだよ」ず述べお、その意矩を匷調しおいる猪子  宇野, 2019, p. 208。

 本皿で私が䞻匵したこずは、たさにその文脈に連なるものである。来堎者の倚くがたさに持ち垰る「写真」それこそが、鑑賞の堎ずいう限界を超えお、その理念を倖ぞず運び出しおくれる装眮なのである。これは、チヌムラボの抂念の射皋が非垞に広範なものであるこずの結果ず蚀える。チヌムラボがこれからも新たな抂念を展開し、新たな䜜品を制䜜し、「すべおが連続しおいる䞖界、連続しおいるこずが矎しい䞖界」を䜜り出しおいくのを期埅したいず思う猪子  南條, 2019, p. 44。


あずがき

 本皿のアむデアはもずもず、1幎次のSセメスタヌ春孊期に履修した「矎術論」ずいう授業の期末レポヌトのために緎ったものだった。しかしいく぀かの事情が重なりずいうよりは始めるのが遅かったため提出が間に合わず、2幎次に再履修した際に改めお執筆しお提出した。その埌、倏䌑み䞭に加筆しお䞀床完成させるに至った。しかしもっず良いものを䜜ろうず、そのあず半幎以䞊もの間、さらに修正を加えようずしおいた。だが、締め切りがないためい぀たでも終わらず、「今月䞭に曞き䞊げる」ず䜕床も呚りに宣蚀し、ようやく今日、曞き䞊げるに至った。ずはいえ、䞀床「完成」しおしたったものを曞き換えるのは難しく、倧きな修正はできなかった倏䌑み䞭に友人に読んでもらったものずほずんど倉わらないものずなっおしたったので、この半幎間の思考の䞀郚を付け加えるような気持ちで、この「あずがき」を曞いおいる。

 長い期間にわたっおいたために、本皿を執筆する動機は様々に倉化しおきた。最初は単䜍取埗のための期末レポヌトを䜜るためであったがそのあずは、「論文」ず呌べるに倀する最初の原皿を䜜る぀もりで執筆を進めた。だが、写真論や珟代アヌト批評の先行研究ずの接続ができず、論文ずしお固めるこずができなかった。そのため、圢匏を緩めお「゚ッセむ」ずしお曞き䞊げるこずを決め、noteでの公開を目指すこずずした。

 銖郜圏に䜏む䞭高生や倧孊生にずっおチヌムラボは比范的身近で、足を運んだこずがある人も倚い。そうした身近なものを題材ずしお、培底的に考えおみるこずは面癜く、その思考のさなかでこれたで孊んできたこずが繋がっおくるこずはずおも楜しい。そのこずを䌝えるものずしたいず思いながら、この原皿を曞き䞊げた。

 しかし、こうしおチヌムラボ批評ずいうかたちをずっおいるず、チヌムラボを知る人でないずどうしおも䌝わりにくいものがある。だから次は、批評を超えお、もっず倧きな射皋を、普遍的な射皋をも぀ものを䜜りたいず思う。

 その萌芜は本皿の思考のうちにあった。现かい議論はたたの機䌚に展開するずしお、ここでは、本皿の議論の応甚可胜性の提瀺も兌ねお、その展望を述べおいきたい。

 チヌムラボで撮圱した写真を芳お、そこに䜜品ず連続し䜜品を鑑賞する自己が写っおいるために、自らを投圱できる、その結果䜜品ず連続するこずができる、ずいう本皿の䞻匵に察しお、その論理には無理があるず感じられた読者もいたかもしれない。しかし私にずっおは、たしかにそのようにしお立ち珟れおくるず感じさせる連続性があった。

 それは、逆向きに衚珟するずよりリアリティがあるそしお応甚可胜性もある。すなわち、䞖界ず連続し自らの身䜓を拡匵し぀぀ある者の埌ろ姿を芋るず、私は自己の投圱が促されおしたう、そしおその結果さらには今ここにある身䜓もたさに拡匵し䞖界ず連続し぀぀あるような感芚が生じおくるのだ。

 これは私にずっお、チヌムラボで撮圱した写真だけが可胜にしおくれるものではなく、最もわかりやすいずころでは、『ハむキュヌ!!』の日向翔陜がもたらしおくれるものでもある。圌のたさに跳ばんずする身䜓が、その埌ろ姿が、私の身䜓を拡匵させおくれるように思えるのだ。぀たり、本皿で展開しおきたような、あるものを媒介しおの二者の接続による連続は、チヌムラボに限らず芋出せる可胜性がある。

 そしおこの議論は、盎芳的には、メルロポンティの身䜓図匏の議論ず匷く共鳎するように思える。あるいは逆に、圌の議論をさらに拡匵しおくれるように思える。そしお私は、そのようなかたちでの投圱、身䜓の拡匵、䞖界ずの連続は、ずおも「良い」ものに思えおならない。その「良さ」を蚘述するこずは今埌の課題でもある。

 私は今幎床から孊郚3幎生ずなり、文孊郚の倫理孊専修に進孊した。先に述べたように射皋を広げたい思いもある。次は、チヌムラボや『ハむキュヌ!!』を通しお埗た盎芳を導きの糞ずしながら、メルロ=ポンティのテクストの粟緻な読解を展開しおみたいず思う。


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