30年ぶりのタイ旅行 ③
タイ、最初の一日
― 焼きつける暑さの中、黄金の寺院をめぐる ―
タイに到着したのは深夜だった。
空港を出てホテルに着いたのは午前2時ごろ。長い移動で体は疲れていたが、30年ぶりのタイに来たという気持ちの高ぶりもあり、なかなか現実感がなかった。
翌朝、ホテルのバイキングで朝食を済ませ、タイ観光の定番ともいえるワット・ポー、ワット・プラケオ、ワット・アルンをめぐることにした。
初めてタイを訪れる妻と息子に、まずは王道の景色を見せたかった。


ホテルはワット・プラケオ周辺から10キロほど南にあり、チャオプラヤ川の近くに位置していた。
移動手段はタクシーかバス。しかし、せっかく川沿いに泊まっているので、船で北上してみようと考えた。
ホテルを出た瞬間、熱気が体を包む。
まだ朝なのに、日差しはすでに強い。空気はむっとしていて、肌の表面がじりじりと焼かれるようだった。
まず近くのセブンイレブンで水を買う。
ホテル前の通りはちょっとした朝市のようになっており、野菜や食材を並べた店の前を、地元の人たちが行き交っていた。
観光地ではない、タイの日常の風景である。
袋を片手に歩く人、店先で話す人、バイクのエンジン音。旅先でこうした普通の生活を眺めるのが、私は好きだ。
ホテルから10分ほど歩いて船着場へ到着した。
しかし、係の人に聞くと、次の船は1時間後だという。
ネット情報と違う。
でもその現地でしか知り得ないことを得ることもまた旅の楽しみだ。
船で移動する計画は早々に諦め、近くを走るバスに乗ることにした。
船着場の人も親切でこの通りの1番バスで行けると教えてくれた。

30年前のタイのバスといえば、暑い車内と開いた窓、風を受けながら走るイメージが強かった。
ところが今回乗ったバスは、きちんとエアコンが効いていた。
冷たい空気に触れた瞬間、ほっとする。
運賃は、今もおばさん車掌が車内を回って集める方式だった。
そこは昔と変わらない。
ただし、以前は小さな筒形のコインケースをじゃらじゃらと鳴らしながら切符を切っていたのが、今回は電子端末を手にしていた。
支払い方は同じでも、道具はしっかり現代になっている。
バスに揺られること約20分。
ワット・ポーの近くに到着した。
裏手から入る形になり、境内を進むと、いきなり巨大な寝釈迦仏と対面することになった。
黄金に輝く、長大な姿。穏やかな表情。


妻と息子は、その大きさと迫力に「すごい」と声を上げた。
私は30年前にも訪れているはずだが、細かな記憶はほとんど残っていなかった。
壁を埋め尽くす壁画も、寝釈迦仏の背後に並ぶ金属製の鉢も、今回初めて見るような感覚だった。
小銭を一枚ずつ入れていくと、
「カラン、カラン、カラン」
と金属音が連なっていく。
金色の仏像、金色の装飾、金色の鉢。
タイは本当に金色が好きだ。
しかし、そのきらびやかさは派手というだけではなく、寺院全体に不思議な荘厳さを与えている。


30年で変わった物価
境内には両替所もあり、そこでタイバーツへ換金した。
為替レート自体は、1996年に訪れたときと大きく変わっていない印象だった。
一方で、物価は明らかに上がっている。
レストランで食事をすれば、簡単に100バーツを超える。
30年前の私は貧乏旅行というのもあったが、道端の屋台で20バーツほどのタイラーメン(バミー)を食べて空腹を満たしていた。
今回、同じような料理を食べると50バーツほどだった。
単純に考えれば、約2.5倍である。
ただ水だけは反対に安くなっているように感じた。
以前は一番安い水でも10バーツほどだった記憶があるが、今回はコンビニで7バーツの商品があった。
高くなったものと、安くなったもの。
経済の発展は、価格にも複雑に表れる。






次に向かったのは黄金に輝くワット・プラケオ
昼が近づき、周辺は観光客でごった返していた。
強い日差しが地面に反射し、上からも下からも熱が押し寄せる。
境内に入ると、目の前に広がったのは、まばゆいほどの黄金の世界だった。
「ここは、こんなにきらびやかだっただろうか」
30年前の記憶よりも、はるかに鮮やかに感じる。
金色の仏塔、細かな装飾、エメラルド色や赤、青のタイル。
どこを見ても緻密で、光が当たるたびにきらきらと表情を変える。
以前から「エメラルド寺院」と呼ばれていたが、今の姿こそ、その名前にふさわしいと思った。
妻も息子も「すごい、すごい」と何度も繰り返していた。
「来てよかった」
その言葉を聞き、私も嬉しくなった。


昼食は、ワット・ポーとチャオプラヤ川の間に広がる商店街で取った。
観光地価格で、決して安くはない。
それでも、せっかくの家族旅行である。
汗をかいた体に、冷たいココナツのスムージーが染み込んでいく。
甘く、まろやかで、最後にすっと青い香りが残る。
熱せられた体の内側が、少しずつ冷えていくようだった。
30年前にも、ココナツの飲み物をよく飲んだ。
味の記憶は薄れていても、この暑さの中で飲むココナツのおいしさは変わらない。

実は本当は妻が行きたがっていた店を探したのだが、昼も夜も予約でいっぱいだった。
ちょっとびっくり。タイは昔から観光が主要産業だったが、今はさらに多くの旅行者が世界中から訪れている気がする。
行きたい店に簡単には入れないことからも、タイ観光の勢いを感じた。

渡し船でワット・アルンへ
食事の後、渡し船でチャオプラヤ川の対岸へ渡った。
目指すのはワット・アルン。
船が川を横切る間、風が顔に当たり、少しだけ暑さが和らいだ。
水面の向こうには、ワット・アルンの巨大な仏塔がそびえている。
川から眺める姿が美しい。
空へ向かって伸びる、白く巨大な塔。

近づいて見ると、陶器や細かな装飾がびっしりと施されている。
しかし、この頃には暑さでかなり消耗していた。
境内の木陰に座り、そのまましばらく横になる。
軽い熱中症のような状態だったのだと思う。
その後、近くのカフェに入り、アイスコーヒーを頼んだ。
普段はブラック派だが、この日は甘いカフェラテが驚くほどおいしかった。
冷たい甘さが疲れた体に広がる。
息子も冷たい飲み物を口にしながら、「生き返る」と笑っていた。


行く前は、寺院ばかりを巡って、妻も息子も飽きるのではないかと思っていた。
しかし実際には、予想以上の高評価だった。
黄金に輝く仏像。
巨大な仏塔。
細部まで施された装飾。
日本とはまったく異なる宗教空間。
知らない文化に触れることの刺激を、私自身も少し忘れていたのかもしれない。
旅とは、名所を見て回るだけではない。
自分の当たり前とは違うものに出会い、驚き、世界の広さを実感することなのだと思う。
息子にも、これからもっと多くの世界を見せてあげたい。
家族三人で一緒に旅ができる時間も、きっとあとそれほど長くはない。
焼きつけるような暑さも、汗で張りつく服も、冷たいココナツスムージーの甘さも。
いつか振り返れば、すべてが愛おしい旅の記憶になるのだろう。
タイ初日の一日は、そんなことを感じさせてくれる一日だった。
