となりで開業、勘違いから始まる処方箋 【ショートショート】
地方都市の朝は、驚くほど静かだった。
駅前といっても大型チェーンの店は少なく、シャッターの下りた商店が点在している。
新しくできたクリニックモールも、派手さはないが、その分、現実的だった。
朝倉ひかりは白衣を腕にかけ、建物を見上げた。
ここを選んだ理由は、ひとつだけではないが、正直なところ一番大きいのは家賃だった。
都心の半分以下。設備は最低限だが、医師一人で回すには十分すぎる。
三十歳。内科医。院長。
女性として生きるために、そして誰にも迷惑をかけずに働くために、彼女はここまで勉強してきた。
医者なら、一人で開業できる。
人間関係に振り回されず、自分のペースで生きられる。
そう考えた結果が、この地方都市だった。
隣の建物の扉が開き、背の高い人物が出てきた。
短髪で、化粧の気配はまったくない。
白衣の下は動きやすそうな服装で、声は少し掠れている。
「おはようございます。今日から開業ですよね?」
「あ、はい。内科です。朝倉です」
「整形外科の立花です。薫って呼んでください」
無駄のない自己紹介だった。
朝倉ひかりは、自然体な態度に少し安心した。
それから数日、朝は挨拶、昼は近くの定食屋か弁当屋、夜は「お疲れさまです」と軽く会釈。
地方都市らしく、患者さんの顔ぶれも似通っている。
高齢者が多く、軽い怪我や慢性的な痛みが中心だった。
「ここ、家賃安いですよね」
昼休みに、ひかりが何気なく言うと、薫は頷いた。
「都心じゃ無理。ボク、ズボラだから勤務医も向いてないし」
その言葉に、ひかりは少し笑った。
同じ理由で、ここを選んだ人が隣にいる。
それだけで、不思議な親近感が湧いた。
薫は合理的で、医師としての距離感もちょうどいい。
男性らしさを押しつけてこないところが、ひかりの好みにぴったりだった。
気づけば、視線を探している自分がいた。
ある日の昼休み、ひかりは思いきって声をかけた。
「今度の日曜、ランチでもどうです?」
「いいですよ」
あっさりした返事だった。
ランチは穏やかだった。
地方都市ならではの患者さんの話、開業してからの経費の話、クリニックモールの管理会社が意外と融通が利くこと。
話題は現実的なのに、居心地がいい。
食後、ひかりは覚悟を決めた。
「もしよかったら……お付き合い、してみませんか?」
「いいですよ」
即答だった。
同い年。同時開業。隣同士。
地方都市で、同じ条件。
うまくいかない理由の方が、見当たらなかった。
交際は静かに続いた。
食事と映画。
たまに、近くのショッピングモール。
派手なデートはできないが、それがこの街には合っていた。
冬休みに数日だけ時間が取れたとき、ひかりは少し照れながら言った。
「温泉のあるホテル、行きたいな」
「予約とかよくわからないから、全部決めてくれるなら」
地方にいると、こういう役割分担が自然に決まる。
ひかりはそのことに、なぜか安心していた。
当日は薫の運転で出かけた。
観光地といっても素朴な場所ばかりだが、それで十分だった。
夕食前、ひかりは部屋の風呂に入り、薫は一人で大浴場へ向かった。
女湯に入っているとは、ひかりは一ミリも考えていなかった。
夜。
部屋に戻り、静かな空気の中で、ひかりは意を決して話した。
「私……女性として生活してるけど、体は、まだ」
薫の目が大きく見開かれた。
「えっ、じゃあ、まだついてるの?」
「……え?」
「それなら、ボクとできるじゃん」
「意味がわからないんだけど」
「え、女同士の交際じゃなかったの?」
沈黙のあと、二人は同時に理解した。
「……薫先生のこと、男性だと思ってました」
「ズボラだから男に見えるだけだよ。ほんとは、化粧とか教わりたかった」
混乱の中で、ひかりは笑ってしまった。
「もしかして……恋愛経験、ないですか?」
「ゼロ。だから、よかったら……普通に」
「じゃあ、普通に恋愛、しませんか」
「うん」
家賃の安いクリニックモールの隣同士で、二人は明日も診察をする。
ひかりは、ふと考えた。
これまで当たり前のように「いつかは」と思っていたことを、今日はなぜか急がなくていい気がした。
「……性別適合手術はさ」
薫が顔を向ける。
「しばらく、見合わせようかな」
その言葉に、薫は少しだけ驚いた顔をして、それから肩をすくめた。
「いいんじゃない? 今のひかりちゃん、好きだし」
地方都市の静かな夜。
答えを急がなくてもいい関係が、そこにあった。

