大切な感情は、言語化した瞬間に陳腐化する
最近、複数人と「言語化ブーム」がすごいよねという話題について話した。私はもともと、自分のために日記を書いたり、ノートを広げたりするのが好きなので、言語化が「ブーム」になっていることには気づいていなかった。でも、そう言われてみれば確かにそんな気もしてくる。
自分の思考を言葉にするのは、自分の本当の気持ちを理解することに繋がるし、良いことがたくさんある。自分が何に喜び、何に嫌な気持ちを抱くのか、自分の現在地を知っておくことは間違いなく大切だ。
しかし、言葉にした瞬間に、一気に解像度が落ちることもあると思っている。
例えば、飲み会の席などで「なんで今の旦那さんと結婚したの?」と聞かれると、私はすごく困る。「なんで」と聞かれても、ただ結婚したかったから。それだけだ。
ただ、大人数が集まる席でそれを聞かれると、何か面白い理由を言わなければならないようなプレッシャーを感じてしまう。ただ、大切な人とずっと一緒にいたかった。理由なんて、本当にそれだけなのに。
「私よりも家事をしてくれるから」とか「料理が上手だから」「優しいから」なんて言葉を並べてしまった時点で、私がその人と結婚した理由は、たったの3行で表せるものに成り下がってしまう。
本当は、そこには3行なんかでは到底収まりきらない、もっと大切なものが詰まっているはずなのに。
「言語化する」ということは、一見すると世界の解像度を上げることのように思われているけれど、実はそうではないのかもしれない。
フィルムカメラで写真を撮れば、そこには「ピクセル」なんていうデジタルな枠組みに縛られない、曖昧で、だからこそ美しいグラデーションの写真が写る。
でも、それを無理に言語化しようとすることは、まるでデジタルカメラのピクセルの中に無理やり色をはめ込んでいくような作業に似ている。
輪郭がはっきりして「解像度が上がった」ように見えて、実はその枠組みからはみ出た一番美しい色彩を、削ぎ落としてしまっているのではないだろうか。
だからこそ、私は本当に大切な人やものに関して絶対に言語化しない。
なんで好きになったのか。なんでその友達と仲良くしているのか。その人のことが、なぜこんなにも愛おしいのか。自分が大切だと思うことに、理由なんてつけてやるものか。
大切な人やものに、理由なんて必要あるわけがない。「○○だから好き」という理由ができた瞬間に、その理由は、「それが無くなったら好きじゃなくなる」という条件に変わるだろう。そんなの、あまりにも安っぽくて陳腐だ。
言葉を紡ぐことは大切で贅沢な行為である。でも、私にしか分からない言葉にならない何かは、一生自分の中だけで終わらせていきたい。
