「頑張らなくていい」と言い続けた企業が、なぜ強いのか
メルカリの「小さな起業家」哲学と、努力信仰の終焉
メルカリで服を売った。
なぜか、後ろめたかった。
その罪悪感の正体が、実はこの国の経済の本質を語っている。
「頑張っていない自分」という幻の罪
日曜の昼下がり、クローゼットの前で途方に暮れたことはないだろうか。
着ない服が三着。去年の流行に乗り遅れたスニーカーが二足。捨てるには惜しいが、置いておく理由もない。スマホを開き、写真を撮り、値段をつける。翌日、売れた通知が来る。
しかし、なぜか罪悪感がある。
「働かずに稼いでいる」「頑張っていない」「ズルをしている」
この感覚の出所を、私はずっと不思議に思っていた。どこかに法律違反があるわけでも、誰かを傷つけたわけでもない。ただ物を売っただけなのに、なぜ後ろめたいのか。
これは怠惰の問題ではなく、刷り込まれた宗教の問題だと気づいたとき、急に腑に落ちた。
ウェーバー先生、あなたが諸悪の根源です
マックス・ウェーバーという人物が、1904年に一冊の本を書いた。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。難しいタイトルだが、要は「勤労は神への奉仕であり、怠惰は罪である」という話だ。
この思想が、近代資本主義の精神的な骨格を作り上げた。
つまり「頑張ること=善」「楽をすること=悪」という等式は、もともとキリスト教の倫理観から来ている。日曜日にソファで服を売るだけで後ろめたくなるのは、私が不真面目なのではなく、400年前のヨーロッパの宗教改革が今も私の脳に染みついているからだ。
これを自業自得と呼ぶには、あまりにもスパンが長すぎる。
で、メルカリは何と言っているか
ここで、この会社の掲げる言葉を確認しておきたい。
「あらゆる価値を循環させる、新たな社会のインフラを作る」
シンプルに聞こえるが、これはウェーバー的な世界観と真正面からぶつかっている。生産することではなく、流通させることに価値を置く。所有ではなく、循環を是とする。働くことではなく、交換することを経済行為の中心に据える。
「小さな起業家」という概念も面白い。誰でも売り手になれる、という話ではなく、誰もが価値の流通点になれる、という宣言だ。生産者でも消費者でもなく、流通の担い手。これは従来の資本主義の文法にはなかった役割だ。
Z世代は怠け者なのか、それとも正しいのか
「コスパ・タイパ」志向のZ世代は、よく批判される。
頑張りが足りない。根性がない。と。
しかし待ってほしい。
彼らが生まれた頃、バブルはすでに崩壊していた。
成長すると同時にリーマンショックがあり、社会人になる前にコロナがあった。
「頑張れば報われる」という物語が崩れ落ちるのを、リアルタイムで目撃してきた世代だ。
壊れたゲームのルールを信じろというのは、さすがに無理な注文ではないか。
副業やフリマへの大量流入は、怠惰ではない。壊れたシステムへの、きわめて論理的な異議申し立てだ。そしてメルカリは、その申し立てに「場所」を提供した企業だった。
「もったいない」は、実は最先端だった
日本には「もったいない」という言葉がある。物を捨てることへの罪悪感、使い切ることへの敬意。これはウェーバーとは別のルートで、循環の倫理に行き着いていた。
服を売ることは、捨てないことだ。使ってもらうことだ。価値を次の人に渡すことだ。「もったいない」の精神から見れば、メルカリで物を売る行為はむしろ誠実さの極みなのである。
なのに私たちは、ウェーバー的罪悪感のせいで後ろめたい気持ちになる。これはさすがに、損な話ではないか。
「頑張らなくていい」はなぜ強いのか
メルカリが「あなたも売れる」と言い続けた結果、フリマアプリの国内市場は年間1兆円を超えた。努力信仰に疲弊した人々が、もう一つの経済の文法を求めて流れ込んだ。
生産しなくても、価値を動かすことができる。
働かなくても、交換に参加できる。この命題を本気で信じた企業が、結果的にプラットフォームの覇者になった。
「頑張れ」と言い続けた企業より、「頑張らなくていい」と言い続けた企業のほうが強かったというのは、さすがにウェーバー先生も想定外だっただろう。
日曜日の昼下がり、売れた通知が来た。
後ろめたさは、少し薄れた気がする。
これは怠惰ではなく、もしかしたら、次の時代の経済倫理の実践なのかもしれない。
さて、あなたのクローゼットには、誰かの役に立てるものが何着眠っているだろうか。
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