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あなた誰?

私はエッセイを書く。イラストも創作も書くが、いつも結局エッセイに戻ってくる。

リアルな人間関係では、ここまで深く自分をさらけ出せない。スキがつくと、自分を受け入れてもらえたような気になる。

最初は、本当のことをどこまで書くか悩んだ。書きすぎると身バレに繋がってしまうし、書かなさすぎると、いまいち文章に説得力がない。


内面で静かに煮えたぎる感情を言葉にすることで、この問題は解決したはずだった。でも、書き続けているうちにもっと自分の力を試したくなったのだ。

人の欲とは恐ろしい。下を見れば安心して羽を畳む。上を見れば、羽根が折れる。


読んでもらう文章を書く前に、自分のレベルを上げたい。そのためには自己開示が必要だ。賛否はあるだろうが、少なくとも私はそう思った。

本当のことを文章にもっと混ぜようとすると、逆に嘘くさくなるときがある。無意識にブレーキを踏んでいるから。


だって否定されたくないもん。


数回しか読み直していない文章に確実性を求める人はいるのか。一生懸命に書いたとしても、もともとの記憶自体が朝霧のように曖昧だ。


本当のことが書きたい。
でも、本当ってなんだろう。


あなたの本当はあなたの中にだけあって、それをすべて差し出す必要はない。読み手の私には、何が本当かなんて実は些細なことだから。

逆も然り。私が事実と違うことで記憶を装飾したり、そもそも記憶違いのことを書いていたとして誰にわかろうか。


私は『ZINE』という個人出版の本をつくる。趣味だ。エッセイ本も何冊か出してきたし、イベントで人の手に渡った。

そこに書いた内容に、薄いヴェールをかけていたことに今気づいた。

本は普段のnoteの記事と違って、いくつものエピソードの地続きだ。そこがいい点でもあり、怖いところだと思う。誤魔化しがきかない。

何を書くか、何を間引くかをいつも以上に真剣に考えていたみたいだ。


ねぇ、本当ってなんですか?
わからないことや、曖昧なままにしていてはいけませんか。


私が白黒つけたがっているのか。都合の良い記憶を繋ぎ合わせて、機を織る。


『鶴の恩返し』で老夫婦は襖を開けた。鶴の羽は織物として老夫婦の手に残り、鶴は痛んだ羽でどこかへと消えた。

「現実と記憶の境目はどこまでも曖昧だから」

たまにはそんな意地悪を言う。


今度告知するが、11月末にもZINE関連のイベントに出る。十の記憶と十の部屋に関するエッセイ集の予定だ。各部屋の間取り図も手描きで描く予定。

部屋で過ごした記憶こそブラックボックス。
昔住んでいた部屋の間取りを思い出せますか。


生きるほどに、過去はカオスと化していく。
私はそれを書きたい。