紫陽花が好きだったーーー私たちの生きた時代
これは、過去の三つの記事を最小限の修正で一つにまとめたものです。
まえがき
覚えていることがどんどん減ってくる。日々起きていることは直ぐに忘れる。新しいことを覚えるのがもっと難しくなってきた。それに比べれば、遠い昔のことの方がまだましだ。妙に細部まで覚えていることがある。
と最近まで楽観していた。しかし、そんなこともどんどん忘れ始めていることに気が付き始めた。やがて、こうやってすべての記憶は白紙になり、一つの生命が永遠の時間の中に消えていくのだろうと思うと、特に異常なことが起きているわけではないと思う。自然の通常運行。
思い出すというのは面白いことだと思い始める。遠い昔の自分が大きな地平の中の、長い時間の流れの中の小さな一点として見える。それを見つめている自分が今いる。その時は、その場を離れることによってしか見えないものがあることはどんなに想像しても知ることはできない。そういう同時代には決して見えないTime and Space を現代史と呼べば、どうだろう?そして、その中の無数の登場人物の内面を知ることができる人間が、一人は確実にいる。
私的な、小さな、一つの説としての現代史を書くことはできないだろうか、そう思って書き始めたのが、このエッセイです。
目次:
1. 父の絵
2. 死んでもたがな
3. 僕のお姉ちゃん

1. 父の絵
父はたくさんの絵を残して他界した。その絵を整理もせず、ガサっと束ねて置いたまま9年も経ってしまった。生きている時も死んでからも親不孝者だ。
何枚か額に入れてみようと思って父の描いた絵を全て広げて見ると、知らない世界が開かれたような気分になった。

いったいこれはどこで描いたのだろう?いや、何を思ってこれを描いていたのだろうと一枚一枚見て考えてしまう。日本にいる学生時代はほとんど父とは喋らず、海外で生活を始めてからはほとんど帰国せず、常に遠い存在のままだった。今となっては、どういう人生だったのか想像するしかない。

父は大正最後の年に生まれたので、生まれてから成人するまでの20年がちょうど日本が暗黒に突っ走り壊滅した時期と重なる。英語を「敵性語」と呼んでいた時代の人なので、彼の英語に対する態度は"遠巻きに見る"というような感じだったのが可笑しい。関心はあるようだったが決して近寄ろうとはしなかった。

中学生の頃、Slang dictionary を紀伊國屋で買ってきてロックの歌詞を解明しようとしていた私を見て、「それ読めんのか?」と父が訊いたのを鮮明に覚えてる。日本の字が全く書いてない本が彼の世界観では不思議だったのだろうと思う。

私はSlang とロックについて説明し、だから英和辞典は役に立たないと言ったと思う。時代はまだピース・アンド・ラブの余韻が残っていた頃だ。中学生は先鋭化する。「そうか」としか父は言わなかったが。

それから、20年くらい経って、休暇で実家に帰っていたある日、私は飛行機からくすねてきたWall Street Journal を読んでいた。読み始めてだいぶ経ってから、父は「それ、日本の新聞とおんなじこと書いてあんのか?」と訊いた。
難しい質問だ。
同じことについて書いてあるけど、違う見方をしているから、同じことを書いてるとは言えない、というようなことを説明した。父はその答えがひどく気にいったようで、「そうか、そうか」を繰り返していた。

父は学校の途中で兵隊に取られたと言っていた。学制が今と違うが、今で言えば、高校中退のような形で教育は終わったようだ。幸い外地に送られる間もなく日本は壮絶に負けた。 教育がないにも拘らず、父は異様にたくさん漢字を知っていた。しかも、恐ろしく達筆だった。昔の人は皆そうだったのか?

父は自分の母親を知らないとも言っていた。父が異様に料理が上手かったのは、小さい頃から極貧の中で自分でごはんを作っていたからだろう。私の母はそんな父に料理を任せていた。子供の私は上手な人が作るのが当たり前と思っていた。父も母も現代女性のワンオペぶりを見たらびっくりするだろう。

父と母は夕食時によく戦中・戦後の食糧不足の話をした。「すいとん」という言葉を覚えたのはそんな時だった。団子のお吸い物のようなものらしいが、団子を作る小麦粉も手に入らず、粉ならなんでも使い、味をつける昆布や鰹節もなく、白湯をすするようなものだったらしい。具になるものがなく、芋の蔓でも入れたと言っていた。

「買い出し」という言葉もよく聞いた。今でも日常用語の一つとして使っているが、戦中・戦後の「買い出し」と言えば、都会から農村へ食物を買いにいくことだった。「買い出し」をして、やっと食糧を得た後の帰路、襲われて食糧を全部とられたりした話をしていた。
敗戦時、父は20歳、母は10歳。二人は白いごはんに感謝していた。

食糧も不足している時に、学校に戻るという選択肢は父にはなかっただろう。子供の自分にとっては、父は毎日会社に行ってる人に過ぎなかったが、地元企業に職を得たのは幸運だったのだろう。
父の父、私にとっての祖父は、京都で着物の柄を描くようなことをしていた。絵師の一種だったのかもしれない。

しかし、戦後そんな仕事は激減した。祖父はどんな絵でも引き受けて描くようになった。うっすらと覚えているが、私が幼稚園児くらいの頃、祖父は子供用ワッペンなんかのキャラクターを描いていた。 祖父は時々わが家にやってきた。必ずホカホカのさつま芋を買ってきた。彼にとってはそれがごちそうだったのだ。
白米に感謝し、さつま芋を有難がる。彼らの体験はそうやって彼らの中に残っていた。
祖父は戦争に行かなったようだ。歳をとり過ぎていたのか、他の理由があったのか知らない。背筋がピンとのびて背が高く頭はつるつるで着物を着て下駄を履き、温かいさつま芋を懐に抱えて、カッカッカと歩く人だった。
小学校のおそらく3年か4年生の頃、私は学芸会で袴を着る役になった。どんな劇かは忘れた。その衣装作りに父は取り組んだ。金と青のストライプのような袴を父は硬い和紙で作った。飛び散る金粉をよく覚えてる。今から思えば異様に力が入ったものを父は何日もかけて作った。
その時に、父は「モン」というものを持ち出した。これがうちの先祖の「モン」だと言って見せてくれた。家紋というものの存在をその時始めて知った。あのツルテンピーカのおじいちゃん(私は祖父をそう呼んでいた)はもちろん明治生まれで、彼の父親は江戸時代の生まれのはずだ。
廃刀令に遭遇し、秩禄処分で何もかも失った下級侍だったのかもしれない。その後、歴史で”武士の傘張り”というフレーズに出会った時に、あ、こういうやつかもしれないと思った。傘張りではなく、着物の柄の下絵を描く職を得たとしてもおかしくない。但し、貧乏から抜け出せることは出来なかった。
そうとすれば、あの家紋はツルテンピーカ家が仕えていた殿様の家の紋だったのかもしれない。明治維新で職を失い、敗戦でまた職を失う家系の紋。行き着いた先が子供用のワッペンだった。それでも、芋を抱えてカッカッカと清々しく歩いていた。やはり侍の血なのか意地なのか。
母の父、つまり僕のもう一人の祖父は戦争に行った。しかし、敗戦になっても戦争から帰ってこなかった。みんな、彼は死んだと思っていた。 敗戦後10年近く経ってからひょっこり帰ってきたそうだ。その時、私はまだ生まれていない。彼はシベリアの俘虜収容所にいた。
自分の持っている記憶の最も早い頃、つまり幼稚園に入る前くらいにこの祖父の記憶が始まっている。彼は日本語じゃない言葉をよく使っていた。オーチンハラショーというフレーズをよく聞いた。意味は分からないが、なんかポジティブなことは分かった。彼の身体の全てから豪放というオーラが出ていた。
注)オーチンハラショー
ロシア語の Очень хорошо(オーチェン・ハラショー)。「とても良い」という意味。シベリア抑留を経験した人々の間で知られるようになり、昭和の家庭では冗談交じりに使われることもあった。私も子どもの頃、「オーチンハラショー」は「すごく良い」くらいの意味として自然に受け取っていた。
シベリアの俘虜収容所から脱走を試みた日本人はたくさんいる。そのほとんどは亡くなった。65万人の日本人が強制収容され、その1割が死んだ。200万人以上の日本人が収容されたという説もある。いずれにしろ、死亡者の氏名が確認されているのは4万1362人のみ。
この祖父がどのように帰ってきたのかは正確には分からない。まとめて全てを話すようなことは一度もなかった。唯一の手がかりは、彼が亡くなったのが私が大学生の頃だったので、約20年間に渡って聞きかじった断片だけだ。
1947年から1956年にかけて収容者の帰国事業が実施された。しかし、祖父はこの中に入っていなかった節がある。一つの断片は、祖父はソ連圏を旅していた話をしていた。彼はそこでロシア語を覚えた。日本人とよく似た民族がいて、誰も自分が日本人とは分からなかったと言っていた。
祖父は一人で中国語を喋ることもあった。そして、同じように中国内を移動していた。そこで中国語を覚え、同じ顔をしているので日本人とは分からないと。断片を繋ぎ合わせると、彼は10年近くかけてシベリアから南下して、ソ連圏でロシア語を、中国領土で中国語を覚え、現地人にまぎれて、一人で帰ってきたということになる。真相は分からない。
シベリアの俘虜収容所については体験者の本がたくさん出版されている。大学生になってからその数冊を読んだ。凄まじく過酷な生活と強制労働、そして収容所内政治。ここでいつまで続くか分からない収容を受け入れて死を覚悟するか、死を覚悟して脱走を試みるか、究極の選択に迫られたことを想像する。
祖父は収容所にはいじめられる民族がいたと話していた。詳しく具体的なことを話すことはなかったが、「かわいそうに」という言葉をよく使っていた。酷い扱いを受ける人達だと何かを思い出すように一人で話していた。私がユダヤ人という概念に出会ったのはそれが最初だった。
学校で少しずつ歴史を知るようになり、私は混乱した。ユダヤ人をいじめるドイツをやっつけたのはソ連じゃなかったのか?そんな国の収容所で彼らがいていじめられていた?子供の頭の中で辻褄が合わなかった。
そんなに単純な話ではなかったということが分かり始めたのは、ずっと後になってからだった。
(初出:2021年3月19日 06:24)
* * *
私が生きている父を最後に見たのは、死の前日、iPadのスクリーン越しだった。私は、その時、ある国際会議に出席するためにカンボジアのプノンペンにいた。
NY市からプノンペンに着いて、まだ時差でぼやーっとしている時に、日本にいる妹から電話があった。「お父ちゃんがだいぶ弱ってるから、話した方がいい」ということだった。でも、もう話せるかどうか分からない、いや、誰が目の前にいるか分からないかもしれないと付け加えた。ともかく、妹は、iPadを持って、父の入院している病院に向かうことになった。
翌日、予定通り、私は会議に出席した。しかし、その会議については、ほとんど何も覚えていない。ニュージーランド首相の大会議室での演説、分室での個別会議、北欧の女性ジャーナリストのインタビューなど断片的な情景が記憶に残っているだけだ。プノンペンの街の風景も全く何も覚えていない。
ホテルに戻って、予定の時刻にSkypeで妹と繋がった。画面の向こうに父がいた。妹と母がベッドを囲んでいた。
「もう分からへんみたいやねん」と母が言った。
妹が「お父ちゃん、お兄ちゃん来たで。見える?」と言って、iPadの画面を父に差し出す。
父は宙を見ていた。目が動いてる。何かを見回しているように見える。もう認知できていないのかもしれない。「お父ちゃん、分かる?お兄ちゃん来た」と妹が再度言った。
「お父ちゃん、分かる? 今なあ、カンボジアという国に仕事で来てんねん。世界中から人が集まってきてんねん。お父ちゃん、聞こえてる?」と私は、iPad の向こうの父に声をかけた。
母と妹は黙っている。何も音のない真空がiPadの向こうの病室に広がる。もう聞こえないのかもしれない。静寂が続くのを避けるように、私は、とにかく続けた。
「あのなあ、また出世してん。下で働いてくれる人が2万人くらいおんねんで。
せやから、あっちこっちの国へ行かなあかんねん。」
やっぱり、もうダメかと思った時、父がこっちへゆっくり視線を向けた。えっ?と思った。父の口元に、父が何かに感心した時にいつもする「ほーっ」という形が現れた。私は、通じてる!と思った。
「お父ちゃん!英語の新聞、こんど読んだるわ。
せやから・・・ほんで・・・、お父ちゃん、ありがとうな。」
* * *
その夜、妹から電話があった。
妹:お父ちゃん、死んだ。
わい:そうか。
電話のあと直ぐに、私は翌日の会議予定を全てキャンセルし、大阪へ向かった。

2. 死んでもたがな
もたもたしてるから、死んでもたがな。ほんまどんくさいやっちゃなあ。アカンわ、この政府。
* * *
85歳の母が死んだ。
77歳の妹(私にとっての叔母)と二人で住んでいた。住んでいたといえるのも4月24日までのことだ。その日、母は呂律が回らなくなったそうだ。それを見て、叔母はなんかおかしいと思い、救急車を呼んだ。救急車が到着する前に頭が痛いと母は訴えた。それが最後の言葉だった。
それから入院生活が始まった。昏睡しているわけではないが、ずっと一緒に生活していた叔母が誰なのか、母は分からなくなっていた。というより、誰も誰だか分からなくなっていた。
めったに日本の誰にも電話しない生活を30年間も続けた後に、その時から週二、三回、ニューヨークから叔母に電話するようになった。ところが、母の様子はまったく分からない。
「コロナでな、誰も病院の中入れてくれへんねん。玄関に行って看護婦さん呼んで待っとかなあかんねんで。ほんで看護婦さんが様子教えてくれんねんけどな。やっぱり誰が誰かも分からんねんて。」
電話しても、そんな話を叔母から聞くだけのことだった。
わい「コロナにはかかってない?」
叔母「コロナ?そんなん知らんわ。なんも先生言いはらへんで。かかったんかなあ?」
わい「かかってないのかな。どっちみち病院におらんとしゃあないな」
叔母「それがな、いつまでもおったらあかんねんて。ボケてるから、他のとこ行かなあかんて言われて今探してもうてんねん」
わい「え、出なあかんの?」
叔母「せやねん、ここボケのおるとこちゃうねんて」
母は突然ボケたわけではなかった。去年ぐらいからだんだんボケて来たのは分かっていた。最後に会ったのは去年の11月だったが、会って話す時は普通に話すことができた。これが問題だった。母を身近で見ている叔母には母のボケが進行していることはよく分かっていたのだが、認定をする人には分からなかった。
支離滅裂なことを言うのは日常茶飯事で、部屋の中で糞尿を垂れ流すこともあった。もう介護施設に入らなければ、叔母の身が持たない状態になっていた。去年の暮れから今年の始めにかけて叔母としていた会話はこんな話ばかりだった。
わい「介護施設見つかったかな?」
叔母「まだアカンねん。級が足りへんねんて。もっとボケなアカンねん」
わい「もうボケてるやん」
叔母「まだ上行かな介護施設入れてくれへん言うとった」
わい「分からんのかな」
叔母「あんたのお母ちゃん調子ええもん。認定する人来たら、ぺらぺら喋って、機嫌よう返すんや。そんなんうまいでえ」
わい「あかんやん、そんなんうまかったら」
叔母「せやろ。みんな騙されて帰ってまうわ」
わい「本人はどうなん?介護施設行くの嫌がってるん?」
叔母「嫌ちゃうみたいやで。誰とでもよう喋るからな。認定の人来たら、機嫌ようなって頭の調子戻るからアカンねん」
わい「なんや、それ(笑)」
困ったもんだ、母と叔母が共倒れになる前になんとかしなければと焦っていた頃、コロナがやってきた。
久しぶりに日本にいる妹と母に電話した。
わい:コロナどないや?
妹:あかんわ
わい:せやろな。
わい:コロナどないや?
母:アベ、アホやな。
わい:せやな。
会話は短く終わった。
* * *
3月初旬、私はヨーロッパにいた。ニューヨークでまだコロナ感染者が一人も見つかっていない2月29日、ヨーロッパに向い、3月14日にニューヨークに戻った。(その後、2月には既にニューヨーカーは数万人規模で感染していただろうということが分かったが、その頃は分かっていなかった。)
3月中旬、ニューヨークはコロナで爆発を始めていた。これは篭城になると思った。フィールドで仕事をしていた頃、しばしばHibernate (籠城)することがあった。戦闘が激しくなったら、動物が冬眠するように、食料を蓄えて自分の陣地に閉じこもるのだ。だから、するべきことは分かっていた。
それより前の2月だったと思うが、そんなことを考えて、準備するものについてツイートしたと思う。パニックを起こしたくなかったので、お笑い風に書いたが、その後、買い占め騒ぎが各地で起こっていた。
ニューヨークに戻って1週間後、ロックダウンが始まった。ニューヨークはしずまりかえった。
ロックダウン開始の直後、病院から電話がかかってきた。
"陽性です"
という単語だけが頭に残った。PCR検査の結果だった。
話を少し巻き戻すと、まだ、ベルリンにいた3月10日、私は微熱を感じた。しかし、その頃、症状の代表のように言われていた乾いた咳というのはなかった。全身の痛みが酷く苦痛だった。それと下痢。1日に何度もトイレに行った。頭痛も続いた。しかし、全部合わせてもインフルエンザのようなものに思えた。コロナかどうか考えたが、こんな症状はそのまま通り過ぎそうな気もした。三日目には熱も出なくなり、治ったと思った。
3月14日、JFK空港に着いた時に、身体の中のネジがゴロンと取れたような気がした。だるくてタクシーの中で座ってるのもつらかった。これはヤバい、ホントにコロナかもしれないと思った。
アパートについて、コロナホットラインに電話した。症状とヨーロッパから戻ったばかりだということを説明すると、医者に電話を回された。また同じことを説明すると、検査の予約を入れてくれた。3箇所の病院の中から一つ選べというので、ちょっと遠いが一番きれいな病院を選んだ。
検査の結果が来たのがロックダウンが始まった頃だった。
* * *
私はヨーロッパでコロナに感染し、それをニューヨークに持ち帰ったのだと最初考えていた。しかし、よく考えれば、3月10日に発症したということは、ヨーロッパに行く前に既に感染していた可能性もある。どっちかは分からない。
喫煙者が重症化することが多いと言われていたので、それがいつ来るかと思っていた。陽性だったということを伝えてくれた人は、調子が悪くなればすぐに救急車を呼べと言っていたので、持ち物を少しだけまとめておいた。入院すれば、どうせ裸にされて変な着物みたいなものを着せられるので、たいして持っていくものはない。
数日して熱が上がることもなく、身体の痛みはなくなっていった。しかし、だるさがなかなかとれず、動くのがしんどくてしょうがなかった。まさか、酸素が足りてないなんてことあるだろうか、と心配になってきたので、アマゾンでオキシメーターを注文した。その頃はまだいくらでもあった。何社も出しているオキシメーターが売り切れで、なかなか手に入らなくなったのはもう少し後になってからだった。
一つ新しい症状を発見した。眼球の裏のあたりに痛みが出てきた。それがコロナと関係あるのかどうか分からないが他の理由も分からない。
* * *
3月下旬、ニューヨークの状況はますます酷くなっていった。その頃、母に電話した。
わい「コロナ、どうや?」
母「なんかテレビで言うてるけど、大阪は誰もなってへんのちゃうのん?」
わい「そうか。いつか来るよ。お店とかあいてんの?」
母「あいてんで」
わい「なんでも買える?」
母「買えるんちゃうか」
わい「そうか。もうすぐ色々売り切れなるかもしれんで」
母「なんで?」
わい「そういうもんや。コロナかかってないな?」
母「かかってへんわ、そんなもん。ニューヨークはどうなん?」
わい「知らんの?」
母「知らんで」
わい「コロナだらけや。毎日たくさん死んでるで」
母「え!そんなことなってんの?あんたはどないなん?」
わい「大丈夫や」
母「気つけなあかんで。あんた、喘息やったからな」
わい「それ、幼稚園の時や」
母「心臓も悪かったやん」
わい「それ、生まれた時や」
今から思えば、この時、既に母の記憶は時空の境界を失い始めていたのかもしれない。
その電話の後、日本のアマゾンから色々食料を注文して母の元へ送ったが、ほとんどが着かなかった。着いたのはお米と他の食料品が数種類だけ。
4月になったが、まだ目の奥の痛みと身体のだるさが残っていた。これはじっとしているせいかもしれないと思って、1日一回近所を散歩するようにした。どうせ、もう感染している。感染の上塗りなんてこともないし、外には人もほとんど歩いていなかった。
世界中のコロナの惨状がどんどん明らかになるにつれ、自分のコロナはもう終わるだろうという確信が出来始めていた。納豆はよく食べるし、タバコはすうし、O型だし、BCGはやってたし、正露丸ももってるし、すべての迷信を味方につけていた。
日本の対応がますます奇怪さを増してきた。既知の事実と未知の領域の取り扱いのバランスが著しく悪い専門家がたくさん現れるのと比べて、未知の脅威に対するNY州の対応は際立っていると思った。
4月になって、また母に電話した。
わい「コロナ罹ってない?」
母「罹ってないで。せやけど、コロナ出てきたわ。あんた、前言うてたな。」
わい「せやろ。お店あいてる?」
母「ようけ閉まってるわ。開いてるとこあるけどな」
わい「食べるもんある?」
母「あるで。まだ買えるとこあるからな」
わい「そうか。マスクはある?」
母「マスクあんねん。ちょっともうたから」
わい「そうか。良かった」
母「ニューヨークはまだ人死んでんのか?」
わい「死んでる」
母「あんた、気つけなあかんで。喘息やったからな」
わい「わかった(笑)」
母「心臓悪かったしな」
わい「わかったて(笑)」
結局、それが最後の会話になった。
入院した段階で、母はもう向こうの世界に行っていたのだろう。それから週に二、三回叔母に電話していたが、母がこっち側に戻ることはなかった。
最初に入った病院は1ヶ月で出されて、二つ目の病院に5月25日に引っ越した。
叔母「二つ目の病院にな、認定の人が来はんねん。ほんで上の級に認定なったら、介護施設に移れるんやて」
わい「認定て、もう誰が誰か分からんようなってんねんから、最上級ちゃうのん?」
叔母「ほんまや。せやな。何すんねんやろ?」
わい「ほんで、入れるとこあるん?」
叔母「二つ候補見てきたんやけど、一つがわりと近くてええとこやったわ」
わい「そうか。ほな、そこ入れたらええな」
叔母「せやねん」
わい「ところで、マスク二枚もろた?」
叔母「まだ来てへんよ」
わい「10万円は?」
叔母「そんなもん、紙も来てへんわ」
わい「紙?」
叔母「申込する紙が来んねんて」
わい「あー、申込用紙。もうすぐ6月やで」
叔母「遅いやろお。何してんねやろ」
わい「まだ会われへんの?」
叔母「まだアカンよ。病院はみんなコロナやから、会わしてくれへん」
わい「そうか。認定の人はええのかな?」
叔母「ほんまや。それ聞いてへんかったわ」
結局、認定する人の訪問はなく、介護施設には入れることになったのだが、母の身体はあちこちが悪く、介護施設の手におえるわけはなく、退院できないことになった。延命しているだけの状態が続いた。叔母の言っていた「紙」は6月に届き、叔母はすぐに母と自分の分を記入して送ったそうだ。
* * *
7月12日、スマホの通知が震えた。母の誕生日だった。そうか、85歳になったのか、電話しようと思った・・・。
いったいどこに?
かける相手はもう向こう側の人だったことに気がついた。
翌日、珍しく妹と叔母の娘の2人からメールが来ていた。母が亡くなったという知らせだった。直ぐに叔母に電話した。
叔母「あ、聞いた?」
わい「うん、聞いた」
叔母「そやねん。まだ会わせてもらわれへんねんけどな。なんか色々手続きあるわ」
わい「そうやろな」
叔母「なんか急変してんて。肝臓に腫瘍もあってんて」
わい「そうか。苦しんでなかった?」
叔母「そんなんはなかったみたいやで。もうずっと意識なかったんや」
わい「そうか。それなら良かった」
叔母「せやなあ。苦しまんと逝けて楽でよかったなあ」
本当のところは知りようのないことだけど、その時は苦しまなかったことだけが一番気になることだった。思い出が走馬灯のように走る、なんてことは全くなかった。しばらく時間が経つまでは他のことは何も頭に浮かばなかった。
わい「あと色々大変やろ」
叔母「役所が変なこというねん」
わい「何言うん?」
叔母「なんか色々届出したり、戻ってくるお金とかあるらしいねんけどな。姉妹であること証明せなあかんねん。○○市まで行って戸籍謄本とってこなあかん」
わい「はあ?面倒くさいなあ」
叔母「なんでこんなことしてんのかな。もうずっと同じとこ住んでんのに」
わい「なんか色々お金いるやろ。病院の請求書はもらった?」
叔母「まだもろてへん」
わい「来たら教えて。電話高いから、メールでええよ。お金送る」
叔母「あのな、あんたから来たメールに返信しよう思うねんけど、出来へんねん」
わい「なんで?」
叔母「娘がスマホくれてんけど、嫌やわあ、これ。分からへんわ」
わい「何が?」
叔母「前のガラケーのメールはな、左上に”返信”て書いてあって、そこ押したら返信できたんやけど、これはその”返信”ていうのがないねん」
わい「・・・」
叔母「ガラケーがええわ」
わい「その機種は分かるかな」
叔母「スマホ」
わい「・・・分かった、帰国した時に見るわ」
世間に「Windows95」とか「インターネット」という言葉が出回り出した頃だから30年くらい前のことだが、母がコンピュータやりたいと言ったことがあった。私はもう海外に住んでいた頃なので、たまにしか家に帰らなかった頃だ。妹は、無駄だ、やめろと言ったが、結局、私はデスクトップとプリンターと机と椅子をセットで母に買ったことがある。
まだ、ダイアルアップの時代なのでインターネットに繋ぐのは今ほど簡単ではなかった。今は”繋ぐ”という意識も無いだろう。その頃はまさに繋がなければいけなかった。
しかし、最大の障害はタイプすることだったと思う。書きたいことがなかなか書き進められないとやがて挫折する。結局、妹が正しかった。コンピュータ一式はすぐに部屋の飾りになった。
母が携帯電話をもつようになったのは、それからさらに10年くらい経ってからだと思う。メールの出し方を教えたのだが、何度教えても本文を書くことはなかった。サブジェクト欄に延々と本文を書き続けて送ってきた。サブジェクトに書ける文字数は制限があると思うのだが、相当書けるということを知った。叔母もそういう世代の人なのだ。
叔母「ちゃんと全部終わったよ」
わい「ありがとう」
叔母「なんか寝てるみたいな顔してたわ」
わい「そうか。良かった。苦しくなかったのかな」
叔母「そんなん全然なかったみたいやで」
わい「良かった」
叔母「さっさと逝けて良かったで。もうだーれも分からんようなってんから」
わい「せやな。ほんでマスクと10万円は来た?」
叔母「あ、それまだ来てへんねん」
わい「ええ。死んでもくれるんかな」
叔母「あら、ほんまや。どうなんねんやろ。もたもたしてるから、死んでもたがな。ほんまどんくさいやっちゃなあ。アカンわ、この政府」
わい「死ぬ前に申請したのに」
叔母「そうや、あんた保険金あんで。ちょっとやけどな」
わい「ええ、そんなもん払てたんか」
叔母「あんたと○○ちゃん(僕の妹)にあげてって言うてたわ」
わい「いらんわ。なんか色々いったやろ。それつこて」
叔母「そうか。ほな置いとくで。あんた帰ってきた時、これで飲みに行ったらええやん」
わい「ハハハ、いらんて(笑)」
電話を切って突然、母が紫陽花が好きだったことを思い出した。もう一度話したかった。
「ありがとう。」
(初出:2020年7月21日 12:20)

3. 僕のお姉ちゃん
何かとても重大で深刻な知らせを聞いた時、即座に強い大きな感情が湧いてこない。映画の中のような劇的なシーンとはかけ離れたほぼ無反応な自分がいる。
約10年前父が亡くなった時も、約1年前母が亡くなった時も、そうだった。認識はしている、でも情緒が反応しない、とでもいうか。身体も心も活動が止まっている。
音が無い空間に一人でいるような感覚。耳が聞こえなくなったわけではない。ありとあらゆる生活音に満ちていることは認識している。それが耳に入って来ない。
周りを見渡しても、まったく普通の風景のはずだが、目に入るものを頭が素通りしている。自分だけその場所にいないように感じる。
そして、何かの拍子に発作のような嗚咽が始まる。
* * *
小さい頃、私が、いや家族全員がお姉ちゃんと呼んでいる人がいた。同じ家に住んでいたのか、近所に住んでいたのか覚えていない。そのお姉ちゃんは、実際は私の母の妹で叔母であったが、叔母なんて概念を理解する前だから、お姉ちゃんと呼ぶことになったのだと思う。
私が幼稚園児の頃、お姉ちゃんは二十歳くらいだっと思う。小学校の低学年の頃、お姉ちゃんは結婚した。結婚式というものに初めて行ったのがその時だった。式は住んでいた街の最寄り駅のすぐ前にあるホテルであったが、ホテルという建物に入ったのもその時が初めてだった。三々九度という儀式を知ったのもその時だった。何が面白いのか分からないが、それ以後お正月になると、三々九度ごっこをするようになった。
幼稚園に入る前か入ったばかりの頃、一歳下の妹と私と近所のじゅんこちゃんの3人で遊んでいた、ある日のことをよく覚えている。今から思うと不思議に思えるかもしれないが、その頃、昭和30〜40年代の日本では、そんな歳の子どもが保護者なしで、自由にブラブラと遊んでいた。
そのある日、私たち3人は近所のどこかの会社の寮か何かのテニスコートを囲む金網の外の芝生の上で遊んでいた。その芝生の金網と反対側は崖になっていた。もの凄く高く見えたけど、おそらく数メートルだったのではないか。
私はその崖に腰掛けた。そこも芝生の続きで草で覆われていた。スルッと滑って落ちるような感覚があったのを覚えてる。妹もそこに腰掛けたいと言って、私はそれを止めたのも覚えている。その後、どうなったのかはっきりしないが、妹は崖から落ちた。
私とじゅんこちゃんは、大きく迂回して崖の下に走っていった。周りには誰もいなかった。妹はそこに横たわっている。大人を探さないといけないと思った。が、私とじゅんこちゃんが二人とも探しに行くと、妹が一人になる。私はじゅんこちゃんに、おかあちゃん呼んできてと頼んだ。私はそこに妹と二人で残った。
その後、結構大きくなるまで、親戚が集まったりすると、私の手柄話のようにこの顛末が語られた。褒めているつもりだというのは分かったが、ちっとも嬉しくなかった。”妹が落ちてもうた”という衝撃の方がはるかに大きく残っていたからだと思う。
じゅんこちゃんをおかあちゃんを呼びにやった後のことは、何も覚えてない。おかあちゃんが来たのか、救急車が来たのか、まったく何も。
妹の頭は割れていて、その街で一番大きな病院に入院した。大人がシミン病院と呼ぶので、自分もそう言っていたが、シミン病院が市民病院だとは長いこと知らなかった。
それから、母とバスに乗って市民病院に通う生活が始まった。毎日行っていたのか、数日おきだったのか覚えてない。しかし、母は、今から思えばだが、かなり忙しい日々を送っていたと思う。
ある日、母に保育園というところに連れて行かれた。保育園の意味を知らなかったが、そこに行くと、ちょうどお昼寝の時間でたくさんの子供が寝ていた。そこに置いて行かれるという恐怖でパニックに陥った私はギャン泣きして、いやや、いややと必死に母に抵抗した。
妹が入院中で、別の小さい子供を一人で家に置いておくのが、いくら当時といえども、母は気がかりだったのだろう。保育園という策に行き着いたのは、今ならよく分かる。しかし、当時の私にとっては、生きるか死ぬかの分かれ目のようだった。
「かしこーしてなあかんで」と言われて、私は一人で家にいることになった。今でも一人でいるのが一番楽なのは、ひょっとしてその時の経験のせいなのか、生まれつきの性格のせいなのか分からない。
その頃から、私は絵を描くのが好きだったらしく、一人でクレヨンで絵を描いてることが多かったらしい。ある日、よく色の出るクレヨンを見つけて、階段の踏み板の端に一段ずつ、おそらくデザインのつもりで何かを描いていった。その色のよく出るやつは、母の口紅だった。母は怒った。
それから、私は近所に住む鬼ばばあのところへ送られることになった。鬼ばばあは、油屋の屋根裏に住んでいた。その油屋は、江戸時代から続いていると思われる古い建物だった。いったい何を売っていたのか分からないが、薄暗い店の中を通り過ぎると裏庭に出て、そこから屋根裏部屋に上がる階段があった。
屋根裏には、足軽の持つ槍や帽子のようなものや甲冑などが置いてあった。高さの低い座敷机のようなものがいっぱい並んでいて、子どもたちが絵を描いていた。鬼ばばあはそこの監督兼絵の教師だった。

鬼ばばあは恐ろしい顔をしていたが、もの凄く美しい水彩画を描いた。僕がどれくらいの頻度でそこに通っていたのか覚えてないが、毎回いろんな絵の描き方を教えてくれた。絵の具の時もあるし、クレパスやクレヨンの時もある。そこは一人で絵を描いていれば、時々鬼ばばあが手直ししてくれる以外はほったらかしで楽しかった。
母は、口紅をだいなしにした罰のために、私を鬼ばばあのところに送ったのではなく、私が絵を描くのが好きそうだと思って、鬼ばばあを見つけてきたのだと私は思っている。
昭和30〜40年代の日本はまだ貧乏だった。池田首相が所得倍増計画をぶち上げたのが昭和35年(1960年)だから、高度成長と名付けられるような時期が到来する前の話だ。日本人は貧乏から抜けだすために必死に働いた。誰もが忙しかっただろう。
今でいうデイケアのようなものがなかったので、忙しい親たちは子どもの世話は大変だったろうと思う。街の中に子どもたちはぷらぷらしていたし、鬼ばばあのようにそんな子どもたちのためのデイケアの役割を果たす人もいた。
私に父との会話の記憶がほとんどないのも、昭和30〜40年代の必死に働く日本のサラリーマンだったことが少なからず影響していると思う。記憶がないというより、会話をすることがまれにしかなかったからだ。私鉄の会社で働いていた父は、夜勤があり、早朝出勤があり、とても不規則な生活をしていた。
私の小さい頃の家族の記憶に、お姉ちゃんが大きく存在しているのは、まだ結婚する前のお姉ちゃんが小さい子ども二人を抱えて奔走する我が家を色々手伝っていたからだろうと推測する。
私の家族の記憶は、母とお姉ちゃんと妹の女3人のようだった。
頭の割れた妹はその後完治して、何もなかったかのように生活し始めた。
鬼ばばあのところに機嫌よく通う私は、ある日鬼ばばあが色紙に水彩画を描かせくれ、大喜びでそれを家に持って帰った。お姉ちゃんはそれを私と同じように気に入ってくれ、私はその色紙の水彩画をお姉ちゃんにあげた。お姉ちゃんは将来私が有名な画家になるまで、ずっと持っておくと言ったのを覚えている。
* * *
去年85歳の誕生日の翌日亡くなった母は、お姉ちゃんと二人で生活していた。母の夫(私の父)は10年前に亡くなり、お姉ちゃんはずっと前に離婚していた。
母は家族から見ると明らかに認知症が始まっていたが、他人と喋る時は急に普通の人になり、なかなか認定されなかった。日増しにお姉ちゃんの負担が大きくなっていった。その結果、お姉ちゃんに私は自分の親の介護を押し付けてるわけだから、とても申し訳ないことをしていた。
母の入れる介護センターを探していた去年のある日、「頭が痛い」と言って、母は意識がなくなった。その日から3ヶ月間入院して意識が戻ることはなく死んだ。コロナのために3ヶ月間誰も母の姿を見ることは出来なかった。
最期まで母の面倒を見続けてくれたのがお姉ちゃんだった。感謝のしようがない。母が亡くなってから、お姉ちゃんは一人で住むアパートに引っ越した。その直後、癌が見つかった。
入院と退院を繰り返すお姉ちゃんの生活が始まった。いつ電話しても、シャキシャキ喋って元気そうだが、おそらくその喋り方が性格なのだろう。いつも前向きで、暗いところを見たことがない。辛い療法をしていると他の人には聞くが本人はそんなことを言ったことない。離婚後、もらっている年金だけで生活するのは楽なはずはないが、そんな文句も聞いたことがない。
しばらく電話してなかったので、一昨日電話した。2回電話したが出ない。3時間ほどしてから、向こうから電話がかかってきた。そんなことはめったにない。外国への電話のかけ方が分からなくなるらしい。
お姉ちゃんの電話代を使いたくないので直ぐにこっちからかけ直した。いつもと同じシャキシャキした調子だったが、声のトーンがいつもより少し低い。
お姉ちゃん「なんかようないみたいやわ。しんどいねん」
わい「え、どっか痛いの?」
お姉ちゃん「うーん、痛いとこあるなあ。あっちこち出あるかれへん」
わい「しんどいから?」
お姉ちゃん「昨日な、歩いてる途中でなんか変になってん」
わい「変て、倒れたん?」
お姉ちゃん「歩行器つこてるからな。倒れはせんかった。直ぐ近くに歩いてる人が助けてくれたしな」
わい「あーそれは良かった。あんまり出歩いたらあかんな」
お姉ちゃん「せやろ、ほんでな、先週退院したんやけど、もう一回入院すんねん」
そんな話をした翌日の昨日、フランスにいる妹からメールが来た。
お姉ちゃんが死んだ。
お姉ちゃんの一人娘(私のいとこ)が私の妹に連絡したらしい。
一番上に書いた状態がまた戻ってきた。すべてのことが変わりなく進み、私はすべてのことを変わりなく続ける。その一方で同時に、私の心の中では何もかも止まっている。音も色も臭いも重力も何もない世界にいる。
今日になって、お姉ちゃんが私の色紙に描いた水彩画を気に入ってくれたことを思い出した。画家にならなかったことをなんて思っていたのだろうとぼんやり考えていた。
突然ひどい発作のように涙が出てきて、止まらなくなった。
ありがとう、お姉ちゃん。
(初出:2022年8月21日 14:07)
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