日露戦争は総力戦か 千葉 功
日露戦争に関する学術研究は、1960年代後半に日露戦争=帝国主義戦争であると決着しましたが、30年以上経て、あの戦争は「総力戦」か、また「第零次世界大戦」なのかが問われました。
この2つの問題提起に対する直接の応答にはなっていないと、『日露戦争』(日本歴史叢書)の著者、千葉功先生は「あとがき」の中で書かれていますが、その理由について、大江志乃夫氏はじめ日本における研究の流れなどを踏まえながら、解説されています。
このたび日本歴史学会編集の日本歴史叢書として刊行した『日露戦争』のあとがきでは、拙著は約二〇年前の二つの問題提起に対する遅れての「宿題」提出にあたると書いた。さらに、問題提起に対する直接の応答にはなっていないとも書いたが、正直にいうと応答できなかったのである。その言い訳を以下していきたい。
約二〇年前の問題提起は、それぞれ別方向から投げかけられたものであった。
一つは「国民国家論」を牽引した西川長夫氏によるもので、日露戦争は「総力戦」に値する「国民戦争」としたうえで、従来の国民国家論では戦争と植民地の問題が落ちることに強い不満を表明した(牧原憲夫編『〈私〉にとっての国民国家論―歴史研究者の井戸端談義―』日本経済評論社、二〇〇三年)。
もう一つが二〇〇五年に慶應義塾大学で行われた国際シンポジウムであり、それは欧米のスラヴ研究者が日露戦争を「第零次世界大戦」とみなす問題提起によるものであった。たとえば、ジョン・スタインバーグは、二〇世紀は総力戦と地球規模の紛争の世紀であり、日露戦争はその最初の戦争だとして「第零次世界大戦」と考えるのが妥当だという(読売新聞取材班『検証日露戦争』中央公論新社、二〇〇五年)。
後者のシンポジウムには著者も参加していたが、日本人の研究者の間では「第零次世界大戦」という呼称の妥当性に懐疑的な雰囲気が漂っていたように思う。日本では「世界大戦」というと「総力戦」が連想されることが多いが、日露戦争ではいまだ「総力戦」段階にはないことから、「世界大戦」と規定できるのだろうかというところが本音だったと思う。
いずれにしても、この二つの問題提起は、日露戦争を「総力戦」と考えてよいのかが奇しくも焦点になっていたのである。それでは改めて、日露戦争を「国民国家論」の観点から見たとき、はたして「総力戦」といえるのだろうか。
拙著でも触れたように、日露戦争に関する学術研究は日露戦争の性格が帝国主義戦争であるかどうかを軸に行われてきた。それが一九六〇年代後半に日露戦争=帝国主義戦争であると結着した以後は、戦争の性格をめぐって論争が起きることもなかった。しかし、三〇年以上経って突如、日露戦争は「総力戦」なのか、また「第零次世界大戦」なのかが問われたのである。日本における研究の流れからいって、そう簡単に答えられる内容の問いかけではなかった。
もちろん、日露戦争が総力戦であったかを検討した研究者も存在した。日露戦争が総力戦体制の萌芽形態を示したことについては、すでに宮地正人氏が指摘していた(宮地正人「日露前後の社会と民衆」歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史六 日本帝国主義の形成』東京大学出版会、一九七〇年)が、本格的に検討したのは大江志乃夫氏であった。
大江氏は、日露戦争がこれまでの戦争とは違って、格段に消耗戦化と持久戦化(長期戦化)を進めたことを強調する。平時における備蓄の兵器・弾薬を基礎として戦う戦争ではなくなり、戦時工業力が戦力を規定する戦争としての性格を初めて明確にした点で、総力戦的性格を示し始めたという。具体的には、砲兵工廠を枢軸とする砲弾生産のための工業動員体制、毛布献納運動や大麦の供出、馬匹・畜牛改良などの例を挙げる。すなわち、大江氏は日露戦争を「プレ国家総力戦的な性格」「早熟的な国家総力戦」「国家総力戦としての様相を端緒的に示した戦争」と見たのである(大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』岩波書店、一九七六年。大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』立風書房、一九八七年)。

この大江氏の定義は、なかなかよくできている。日露戦争を、日清戦争など一九世紀の戦争と比較すると、総力戦的な性格が浮かび上がってくる。一方で、日露戦争を、本格的な総力戦であるところの第一次世界大戦と比較すると、総力戦としての性格が不徹底ということになる。大江氏のように日露戦争を「国家総力戦としての様相を端緒的に示した戦争」と定義すれば、日露戦争は総力戦であって総力戦ではないといったところをうまく説明してくれるであろう。
もちろん、横山久幸氏などのように、日本陸軍が工業動員を意識するのは第一次大戦以降であって、大江氏の見方は後世の評価であると批判する研究者もいる(横山久幸「技術戦としての日露戦争―日本陸軍による技術革新期への対応―」防衛庁防衛研究所編刊『日露戦争と世界―一〇〇年後の視点から―』二〇〇五年)。しかし、大江氏の定義によれば、一九世紀の戦争との違いを重視して総力戦的な性格を強調する研究者も、本格的に総力戦的な性格を帯びる第一次世界大戦との違いを重視してその度合いが不十分であることを強調する研究者も、ともに納得することができる点で、著者は「なかなかよくできている」と評したのである。
興味深いところでは、等松春夫氏が、世界大戦という熾烈な総力戦を予言したといわれるイヴァン・ブロッホ『未来の戦争』を用いて、日露戦争がいかなる点で総力戦であったか、もしくはなかったかを検討している(等松春夫「日露戦争と「総力戦」概念―ブロッホ『未来の戦争』を手がかりに―」軍事史学会編『日露戦争(二)―戦いの諸相と遺産―』錦正社、二〇〇五年)。
ブロッホは、将来の戦争では①火力の飛躍的増大によって戦場では長大な塹壕戦が形成され、戦闘は膠着状態に陥る、②戦争経費が膨大なものになるので、戦争は戦闘の勝敗によってではなく、物資の欠乏によって終わる、③長期消耗戦の結果、戦争目的について国民的合意が形成されていない国家では「社会革命」の脅威が増す、と予言した。
実際の日露戦争においても、①に関していうと、南山の戦いや旅順攻防戦で塹壕戦が見られた。②も、たとえば奉天会戦(一一日間)では一八七〇~七一年の普仏戦争(七ヵ月間)に迫る量の銃砲弾が消費され、大消費戦は日露の戦時財政に重くのしかかった。③に関していえば、戦争最末期に賠償獲得に失敗したポーツマス講和条約への不満から、日比谷焼き打ち事件という反政府暴動が起こったことが典型であろう。
すなわち、ブロッホの挙げた総力戦の諸特徴から見ると、日露戦争では部分的に「総力戦」的な様相が現れたといえる。しかし、その様相が本格化する前に、現実の戦争は日露双方が戦う手段と意志を失って終結したのである。
ブロッホを通じてこのように分析する等松氏は、日露戦争が国家総力戦の端緒的な諸特徴を示したと考える大江氏と結構近い解釈をしているといえる。やはり大江氏の定義はよくできている。
ただし、日露戦争は部分的に「総力戦」であったという応答では、本稿冒頭で紹介した問題提起への解答となるのか。日露戦争は総力戦であって総力戦ではないといった説明、すなわち何をも説明できるということは、結局は何をも説明していないのではないのか。このような天邪鬼な性分が大江氏の定義にそのままのっかって事象を説明することを躊躇させた。読者もこのことを寛恕して拙著を読んでいただけたらと思う。
(ちば いさお・学習院大学教授)
