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太宰治の『斜陽』は、本当に「沈む」だけの物語なのか。

※この記事は、一人の文豪好きが『斜陽』を読んで考えたことです。作品の一つの読み方として楽しんでいただけたら嬉しいです。

『斜陽』を読み終えて、一番印象に残ったのは物語の最後だった。

私は小説を読むとき、結末に作者の意図が最も表れるのではないか、と考えながら読むことが多い。

『斜陽』では、直治の遺書のあとにかず子の手紙が置かれている。

もし太宰治が「絶望」を描きたかっただけなら、直治の遺書で物語を終えることもできたはずだ。

しかし、最後に語られるのは、かず子のお腹に宿った新しい命だった。

私はここに、『斜陽』という題名の意味があるように感じた。

「斜陽」と聞くと、「沈む太陽」を思い浮かべる人が多い。

けれど、太陽は沈むだけの存在ではない。

沈めば、また昇る。

沈むことと昇ることは切り離せず、どちらか一方だけを選ぶことはできない。

そう考えると、『斜陽』は「没落」の物語であると同時に、「再生」の物語でもあるのではないだろうか。

太宰治の作品には、人の死が描かれることが少なくない。

『斜陽』でも直治は命を絶つ。

しかし、その直後には、新しい命が語られる。

私は、この構成がとても印象的だった。

誰かが亡くなり、誰かが生まれる。

光が沈み、また新しい光が昇る。

私は『斜陽』という題名を、「終わり」だけではなく、「終わりと始まりを繰り返す循環」の象徴として読むこともできるのではないか、と感じた。

もちろん、これは私自身の一つの解釈にすぎない。

だからこそ、他の人が『斜陽』をどう読んだのかも、ぜひ聞いてみたい。

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