御巣鷹山事故を玩具にするな――撃墜説という冒涜
(Verified Archive)
御巣鷹山事故をめぐる「撃墜説」は、時間の経過とともに繰り返し持ち出される。
しかしそれは検証ではなく、現場と犠牲者への二次加害として断じて看過できない。
1985年8月12日。
日本航空123便墜落事故は、戦後日本最大の航空機事故として記録されている。
520名が亡くなった。
遺族が残り、救助に向かった人々がいた。
そして事故原因の究明と、二度と繰り返さないための航空安全の積み重ねが続いてきた。
にもかかわらず、この事故には一定周期で必ず浮上する言説がある。
いわゆる「撃墜説」である。
1. 巨大な悲劇は「物語化」されやすい
御巣鷹山事故ほどの規模になると、人はそれを「事故」として受け止めきれない。
なぜこんなことが起きたのか
こんな悲劇が偶然であるはずがない
誰かの意図があったのではないか
こうして悲劇は説明ではなく物語に吸い寄せられる。
陰謀論が魅力的なのではない。
巨大な悲劇が、人間の心理を物語へ追い込むのである。
だがそれは、真相究明とは全く別物だ。
2. 撃墜説が成立しないのは技術的にも明白である
御巣鷹山事故については、公式調査によって原因の因果が積み上げられている。
事故調査報告書が示すのは、
圧力隔壁の破壊
垂直尾翼の損壊
油圧系統の喪失
操縦不能状態での長時間飛行
最終的な墜落
という一貫した機械的・運航的連鎖である。
航空事故調査とは政治的物語ではない。
部品、構造、操縦、油圧、運航、記録という技術の積み重ねだ。
撃墜説はそれを覆せる証拠を提示しない。
提示されるのはたいてい、
断片的証言の切り貼り
「隠されているはずだ」という推測
資料の誤読
結論ありきの循環論法
である。
疑うことは自由だ。
だが航空事故を覆すには、自由ではなく検証可能性が必要なのだ。
3. 「空中衝突」を舐めている
撃墜説の派生には、「標的機が衝突した」などという話まである。
だがこれは空中衝突をあまりにも軽く見ている。
空中で航空機同士が接触するというのは、映画の小道具ではない。
速度差、衝撃、構造破壊、破片の散布、飛行特性の崩壊。
その結果は瞬時に致命的になりうる。
もし空中衝突が起きていたなら、
事故機の挙動、破壊様式、記録に明確な整合性が要求される。
「衝突したのでは」で済む話ではない。
航空とはそういう世界ではない。
4. 「火炎放射器で証拠隠滅」という妄想の非現実性
さらに、自衛隊が火炎放射器で証拠を焼却した、という言説まである。
これは陰謀論というより、災害現場そのものへの侮辱である。
あの事故当時、
夜間
山岳地帯
道もなく
通信も不十分で
生存者がいる可能性がある中で
救助と搬送が最優先されていた
その現場に「証拠隠滅の余裕」があるはずがない。
御巣鷹山の険しさを知れば、そんな発想自体が成立しない。
現場は陰謀劇の舞台ではない。
地獄のような救助現場だった。
5. 時間が経つほど「歴史修正」が起きる
巨大事故にはもう一つの残酷さがある。
時間が経つほど人々の記憶は薄れ、
現場を知る世代は減り、
一次資料に直接触れる人も少なくなる。
そのとき空白に入り込むのが「物語」だ。
陰謀論は悲劇の直後に生まれるのではない。
むしろ、時間が経ってから強くなることがある。
記憶が曖昧になった場所に、
断定と煽動だけが残るからだ。
6. 捏造は平気で行われる
撃墜説界隈で見られるのは、
「疑問」ではなく「捏造」ですらある。
例えば、
当時まだ運用されていなかった機器がニュース映像に出ていた
存在しない表示板が出ていた
といった種類の話が平然と流通する。
これはもはや議論ではない。
歴史修正である。
技術史や運用史を少しでも知っていれば成立しない話でも、
時間が経てば「それらしく」見えてしまう。
そしてそれを根拠に、事故全体を陰謀へと塗り替えていく。
7. 玩具にしていい話では断じてない
私の父は海上自衛隊で哨戒機の機長だった。
だからなおさら思う。
飛ぶという仕事は軽いものではない。
安全とは現場の誇りと責任そのものだ。
御巣鷹山事故を「撃墜」という娯楽で消費する言説は、
航空安全に関わる人々の気持ちを激しく冒涜している。
玩具にしていい話では断じてない。
結び:航空事故は陰謀ではなく教訓である
悲劇を別の物語で消費することは、真実への問いではない。
それは犠牲者と遺族への冒涜であり、
現場への侮辱であり、
安全を積み上げてきた社会の基盤を壊す行為だ。
航空事故は陰謀ではない。
未来の安全のための教訓である。
その尊厳を守ることは、私たちの側の責任である。
事故から40年を経て、自衛官OBが沈黙を破って証言する事態に至っている。
それは「議論が続いている」からではない。
根拠のない言説が現実世界に侵入し、慰霊碑にまで刻まれるところまで来てしまったからだ。
ここで必要なのは“論争”ではない。
犠牲者と現場の尊厳を守るための線引きである。
追補:言論の自由と二次加害の境界
御巣鷹山事故については、
護衛艦のミサイルによる撃墜
自衛隊戦闘機による攻撃
墜落現場特定が妨害された
遺体や所持品が意図的に損なわれた
といった、目を覆いたくなる主張を展開した書籍まで存在する。
言論の自由とはいえ、これは看過できる範囲を超えている。
航空事故は「物語の題材」ではない。
犠牲者と遺族が現実に存在し、
救助と調査と安全の積み重ねが現実に存在する。
根拠を欠いた断定は、単なる異説ではなく二次加害である。
「自由」は免罪符ではない。
悲劇を玩具にする自由など、社会は持つべきではない。
追補:航空の世界の現実
航空の世界は、平時であっても「未帰還」が現実にある。
私の父は海上自衛隊で哨戒機の機長だった。
母は、父が任務から帰ってこない可能性を覚悟し、切った爪と髪を保管していた。
遺骨の代わりにできるように、という静かな備えだった。
父の同僚には、事故で未帰還となり、遺骨も上がらなかった飛行艇乗りがいたという。
骨箱に収められたのは、墜落海域に浮いていた煙草の箱ひとつだけだったそうだ。
航空とはそういう厳しい世界である。
だからこそ、大事故を「撃墜」や「隠蔽」といった娯楽の物語で消費する言説は、
犠牲者だけでなく、飛ぶ者と待つ者の覚悟そのものを冒涜している。
御巣鷹山事故は、玩具にしていい話では断じてない。
