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壬申の乱はなぜ「乱」なのか?実は持統による母方の弔い合戦ではなかったのか?神武は応神と天武のコラボ作品!?

普通、乱のいうと、平将門の乱とか、筑紫磐井の乱とか、
承久の乱、応仁の乱、島原の乱、大塩平八郎の乱など、
大抵は官軍または為政者によって鎮圧された事件を言う。

となると、壬申の乱は、正当な政府に対してクーデターのような戦いだったのに、クーデター側が勝ったので、正統な皇太子(天皇だったかもしれない)大友皇子は自害し、壬申の乱として、賊軍側にされてしまったわけである。

これは幕末の江戸幕府に対して、幕府を賊軍とし、薩長のクーデターを維新として処理した明治と非常によく似ている。

維新と言いながら天皇の権力に一極集中させた古代天皇という化石みたいな王政復古を成し遂げた(もちろん明治天皇はお飾りだが)

壬申の乱の後、天武は天皇となり、自らの正当性を示すために記紀の編纂を命じた。(しかしその血筋も絶えて100年で天智系に戻ってしまうが

また明治政府も、明治天皇が正当な支配者として誇示し、国民を洗脳した。
(教育勅語という名前で小学校から教育)
しかし明治から約80年で大日本帝国は瓦解。天皇は大元帥から象徴へとなりさらに80年の歳月が流れた。

にもかかわらず戦後80年を過ぎても、まだ洗脳が解けていない国民が一部にいる。(天皇を神とするカルト宗教)

もし歴史が逆だったら、壬申の乱は、大海人の乱となるだうし、薩長の戊辰戦争は、薩長の乱となったかもしれない。(もしくは薩摩の変
(変は内部クーデター。薩摩は表向きは幕府側だったから)

つまり何が言いたいかと言うと、歴史は常に勝者側から書かれるという事。

その名称さえ、乱とか変とかいうのも、勝者が勝手につけた名前である。

まさに勝てば官軍負ければ賊軍を文字通りやってきたのが日本なのである。

日本の歴史はすべてそうなのである。

だから日本書紀に書かれていることは、すべて勝者の歴史感で書いてあるから、敗者側の論理はそこにはない。

だからこそ、我々は、負の側から歴史を見る必要がある。

日本の場合、一番最初に見なければならないのが出雲王国のことだ。

出雲とはなんなのか?

そしてその出雲の勢力に押され、継体天皇が産まれた。

応神の血が流れていたらしいが200年(80年とも)離れた子孫である。

これを現代に例えるなら、昭和天皇がもし昭和20年に死刑になっていたとして、その後、ほそぼそと天皇をつなげてたが遂に血筋が絶えて80年ぐらいたった時に、やしゃごのやしゃごみたい男性が突然現れて天皇なったようなものである。

記紀はそんな芸当も出来た過去を、応神の血筋があったということにして、系図をつなげてしまった。(作為した。捏造した。)

しかしその応神の母は神功皇后
彼女の父は葛城氏で母は息長氏。
夫は仲哀天皇で身長3メートル!
仲哀の父は日本武尊(超人)!

通説では、仲哀は架空の人物。

私的な感じでは、応神のと、天武のを合体させて作り上げたのが、
神武天皇の正体である。と思っている。

それともう一人、神と作く名に、崇神天皇もいるので、

神武とは、

崇神と応神と天武の3人が合体したコラボ人間なのである。

つまり実在しない。
(いると思った方、あなたは洗脳から解けていない)

天皇の名前は、当時そんな名前の天皇がいたのではなく、後世になって、淡海三船が漢風諡号としてつけた名前である。

つまり、いくらでも創作出来たのである!
(継体は前の王朝と新しい王朝を継ぐので継体)

天皇の漢風諡号(かんぷうしごう)は、奈良時代の貴族であり学者でもあった淡海三船(おうみのおおふね)がつけました。彼は奈良時代後半の天平宝字年間(760年代〜770年代)に、初代の神武天皇から第41代の持統天皇までの歴代天皇、およびその後の数代の天皇(元正天皇まで)に対して一括して漢字二文字の漢風諡号を撰進しました。

Google AI

だから、天武が神武の直系という偽系図が簡単に作れたのである!


徳川家康が清和源氏の流れというのとそっくりである!

薩長は清和源氏の流れではなかったから(特に実行した西郷や大久保など)、代わりに神武の直系の祐宮という幼帝を担いだ。
(他に親王が3人がいたにも関わらず、この若さで!)

維新当時は15歳になっていたが、実は裏で暗殺され、同年代の男の子が長州から連れてこられた。彼は南朝の血を引く子だったが、孝明天皇の子としてすり替わった。(伊藤博文や木戸孝允らが実行したと言われる)

もちろん、歴史学会では否定されている。

しかし!

卑弥呼という人物が金印をもらっていることが記紀に書かれていない(実在しないものとして無視)のに、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとばれたら皇室が卑弥呼の王位を簒奪した王朝だとばれるので、絶対に発掘を許さない。

学者も日本の歴史が根底からひっくり返るので、わかっていても本当のことは言わない。同じく明治天皇すり替え説も。

もし、明治天皇が孝明天皇の息子ならば、会津も徳川も賊軍になるわけがない!絶対にありえないことだ!しかも明治天皇みずから南朝を正当化し、その時の忠臣である楠木正成の銅像を全国に作った!

こういうことを大久保や岩倉具視がやったから、大日本帝国は罰が当たり、わずか80年で瓦解したと、私なんかは思ってしまう。

百済に入れ込み過ぎて、中臣(藤原氏)と組んで、蘇我王家をクーデターでやっつけた天智も同じだ。「乙巳の変」⇦変ですよ、変!

彼はその後の白村江での敗戦の弁を述べるどころか、都を近江にうつして即位してしまう。そして弟(天武)が先に立太子してたのに、息子を立太子させ、天皇にまでして弟に頼んである。なんという自己中心的な男であろう。

若い時からこういう兄貴のだらしなさ(恋愛関係)と暴虐的な性格に、つくづく辟易してたのではないか?

大体、中大兄の王は天皇になれる人でなかったのに、兄貴(母が蘇我氏)を殺して自分が天皇になった男である。その後も謀略の限りを尽くして即位した。しかし無数の亡霊がとりついて、彼は死んだ。そして息子は幻の天皇のまま、首を吊って自害したと言われる。近江朝はわずか5年で廃都。

娘のうののさらら(持統)は、この壬申の乱の裏のフィクサーと言われているが、自分の母の死も、もとはと言えばこの父。(母方の祖父(蘇我氏)も殺された)

そういう意味でも、壬申の乱とは、天智に殺された人々にとって、

蘇我氏を滅亡に追い込んだ意趣返しの意味をもった、弔い合戦だったのではないだろうか?


あくまで私説です。





















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