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天使のアルゴリズム

ジョン・ディーという男を知っているだろうか。

十六世紀のイギリスに生きた数学者であり、天文学者であり、占星術師でもあった。エリザベス一世にも重用されたほどの知識人だったが、彼にはもう一つ、奇妙な顔があった。

天使と話していたのである。

もちろん、本人がそう言っていただけの話だ。ディーは水晶玉のようなものを使い、霊視能力を持つ男とともに、天使から送られてくるという言葉を書き残した。

後世、それは「エノク語」と呼ばれるようになった。

奇妙な文字。奇妙な単語。奇妙な文章。意味があるようにも見えるし、でたらめにも見える。

四百年以上もの間、多くの研究者がその正体を調べてきた。人工言語だという者もいた。暗号だという者もいた。ディーたちが作り上げた壮大な芝居にすぎないという者もいた。どれも決定的ではなかった。

言語学者の佐伯一郎がエノク語に興味を持ったのは、まったくの偶然だった。

佐伯は疑い深い男だった。学生時代から、根拠のない話を一つも信じたことがない。占い、血液型性格診断、陰謀論——そうしたものに出会うたびに、佐伯はデータと反証を並べて黙らせてきた。それが彼の唯一の誇りだった。

その週末、佐伯は郷里の母を見舞う予定になっていた。半年前に心臓の手術を受けて以来、母は入退院を繰り返している。

「今度はいつ来られるの」

先週の電話で聞かれたばかりだった。

「今度の土曜に行くよ」

佐伯はそう答えていた。

大学で古い暗号文を研究していた佐伯は、ある日、学生から聞かれた。

「先生、AIならエノク語を解読できるんじゃないですか」

佐伯は笑った。

「四百年間、人間が解けなかったものをか」

「だからAIなんですよ」

その言葉が妙に頭に残った。

数日後、佐伯はディーが残したエノク語の文書を集め、研究室のAIに読み込ませた。

結果は平凡だった。

既知の言語との明確な対応関係はありません。統計的には人工的に構成された言語である可能性があります。

佐伯は肩をすくめた。やはりそんなものだろう。

ところが、念のためディーの日記や手紙、天文学関係の記録も追加してみた。さらに、彼が作ったホロスコープや惑星の位置を書き込んだ星図も入力した。

三時間後、AIが奇妙な回答を返した。

「エノク語を言語として解析することは適切ではありません」

佐伯は画面を見つめた。

「では何なんだ」

「数値列として解釈すると、天体配置との強い対応が確認できます」

佐伯は椅子を引き寄せた。

エノク語の単語には、それぞれ数値が対応していた。惑星の位置。黄道十二宮。月の位相。惑星同士の角度。ディーが天使から聞いたと称していた文章は、実は巨大な天体計算表として読むことができた。

しかも奇妙なのは、その精度だった。十六世紀の天文学では知り得ないはずの値まで含まれている。

佐伯は何度も計算をやり直した。結果は変わらなかった。

さらにAIに、エノク語の数値と過去五百年間の歴史上の事件を照合させてみた。

偶然とは思えない一致が現れた。

戦争、革命、暗殺、疫病、金融恐慌、大規模な暴動——。

ただし、ある問題があった。

星の配置と事件の種類には、まったく規則性がなかった。ある配置のときに戦争が起き、別の時代では株価が暴落した。同じ配置でも、何も起きなかった地域もある。

占星術とは違う。

星が未来を決めているわけではないらしい。

佐伯はAIに尋ねた。

「では、この数値は何を予測している?」

回答が返ってくるまで、いつもより長い時間がかかった。

「人間の意思決定です。特定の天体配置において、人間集団の判断傾向に統計的変化が生じています。怒りやすくなる。疑いやすくなる。他人の言葉を悪意に解釈しやすくなる。指導者が極端な決断をしやすくなる」

ほんの数パーセントの変化だった。しかし社会全体で起これば、その数パーセントが歴史を動かす。

佐伯は思わず笑った。

「それじゃ、占星術じゃないか」

「いいえ。星が未来を決定するという証拠はありません。星の配置と人間の判断には、未知の相関関係があるだけです」

佐伯はしばらく画面を見つめていた。

ジョン・ディーはこのことを知っていたのだろうか。十六世紀の人間に説明するには、天使という言葉しかなかったのかもしれない。

佐伯は思いついて尋ねた。

「次に、その配置になるのはいつだ」

「三日後です」

佐伯の背中に小さな寒気が走った。

「誤った判断をする可能性が最も高い人物は分かるか」

「登録データの範囲内でなら」

十秒ほどして、一人の名前が現れた。

佐伯一郎。

佐伯はしばらく動かなかった。

やがて声を出して笑った。馬鹿馬鹿しい。AIに自分のメール、予定表、研究記録まで読ませていたからだろう。自分のデータが多い。だから自分が選ばれただけだ。

そう自分に言い聞かせながらも、佐伯は土曜の見舞いの予定を思い出していた。

三日後——ちょうどその日だった。

三日後。

佐伯は大学を休んだ。電車にも乗らなかった。ニュースも見なかった。メールも開かなかった。

今日は何も判断しない。

それが予言を外す唯一の方法だと思っていた。

四十年間、根拠のないものを信じたことのない自分が、今こうしてAIの予言に従っている。その滑稽さに気づきながらも、佐伯は部屋を出なかった。

午後二時十三分、携帯電話が鳴った。

画面には病院の名前が表示されていた。

母親が入院している病院だった。

佐伯は一瞬、電話を取ろうとした。

だが、手を止めた。

これかもしれない。

電話に出て、何かを決める。そこで判断を間違えるのかもしれない。

佐伯は携帯電話を伏せた。

電話は切れた。

すぐにまた鳴った。

佐伯は出なかった。

三度目。

四度目。

七度目まで鳴った。

それでも出なかった。

夜十一時五十分。

あと十分で一日が終わる。

何も起きなかった。

佐伯は安心した。

予言は外れた。

日付が変わる直前、佐伯は携帯電話を手に取った。

留守番電話が七件入っていた。

最初のメッセージを再生した。

母親が急変したという。

まだ意識があり、佐伯と話したがっているという。

二件目。

「できれば早くお電話をください」

三件目。

「お母さまが、何度も息子さんのお名前を呼んでいらっしゃいます」

四件目。

五件目。

声はだんだん切迫していった。

最後のメッセージは午後三時二分だった。

「先ほど、お母さまが亡くなられました」

佐伯は長いあいだ、携帯電話を握ったまま動かなかった。

先週の母の声が蘇った。

「今度はいつ来られるの」

「今度の土曜に行くよ」

その土曜は、もう終わろうとしていた。

やがて佐伯は研究室のAIに接続した。

「……これが、私の判断ミスなのか」

「はい」

佐伯は画面を睨んだ。

「でも私は、何も判断していない」

数秒後、文字が現れた。

「電話に出ないと決めました」

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