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近珟代文化の諞問題 第回 教逊ずは䜕か唐朚順䞉『珟代史ぞの詊み』

 第回では、自然䞻矩䜜家・田山花袋の芖点から、明治末から倧正期の銖郜を舞台に、江戞東京ぞの移り倉わりの芖点を振り返っおきたした。
 近代文孊の誕生は、これたでの韻文による物語の䞖界から、散文による新しい〝小説〟ずいう分野を生み出したした。
 「自然䞻矩」ずいうリアリズムの芖点があったからこそ、花袋は江戞から東京ぞの郜垂空間の倉遷を客芳的に察象化するこずができたわけです。
 ずりわけ倧正末期の関東倧震灜は、明治末たで蟛うじお残されおいた江戞文化の遺産を焌き払うものでした。

 今では「近代」ず「珟代」を分ける転換期ずしお、昭和期の戊前・戊埌を分岐点ずする芋方が䞀般的ですが、それ以前は、関東倧震灜以前ず以埌で文孊史を分ける芖点もありたした。
 眹灜による焌倱によっお、䞖代の亀代や建築物の近代化のみならず、江戞以来の膚倧な文献を焌き尜くしおしたったからです。
 今でも叀曞街を歩くず、江戞期以前の和本や叀文曞を目にするこずができたす。しかし、その倚くは地方に残されおいたもので、倧郚分はこの震灜によっお倱われおしたった ず考えおも差し支えないでしょう。

 こうした戊争や倧芏暡灜害による時代の断絶を〝グレヌト・リセット〟ずいう蚀い方をするこずがありたす。
 ペヌロッパでは第䞀次倧戊、日本では第二次倧戊以前ず以埌で〝グレヌト・リセット〟に倀する倉革はありたした。
 江戞時代にも床々倧火によっお再生が繰り返されおきたしたが、十䞃䞖玀埌半の「明暊の倧火」が、いわば近䞖に斌ける〝グレヌト・リセット〟ずもいえる倧事件でした。
 この倧火によっお、これたで江戞に集たった文献や文化が焌倱し、戊囜時代的な気颚をも焌倱しおしたったからです。
 『本朝通鑑』ずいう歎史曞を線纂しおいた林矅山は蔵曞家でもありたしたが、この倧火で倚くの資料を倱い、ショックの䜙り急逝しおしたいたす。
 そうしたこずから資料保存の重芁さに目芚めた若き氎戞藩䞻・埳川光圀は、『倧日本史』の線纂を開始するわけです。

 さお、今回は、花袋の郜垂論ずは別に、明治から倧正期の䞖代的断絶を象城する出来事を玹介したいず思いたす。
 知識人の間でも、明治期たでは蟛うじお残されおいた歊士的な粟神が、文明開化を通じお、次第に倱われおいきたした。
 ずりわけ啓蒙期に明治人の間で唱えられおいた「文明」ずいう蚀葉が、倧正期以降、「文化」ずいう蚀葉に取っお代わっおいきたす。
 転機ずなったのはどんな事象でしょうか。䞀぀考えられるのが、日露戊争です。
 黒船来航以来、明治人たちは半䞖玀にわたっお、䞍平等条玄の改正に尜力しおきたした。
 瀟䌚科の時間でも孊んだ「領事裁刀暩の撀廃」「関皎自䞻暩の回埩」ですが、この二぀を取り戻さない限り、日本は半分「怍民地」の状態であったずいう芋方ができたす。
 日枅・日露戊争ず倚くの犠牲を払っお、挞く条玄改正に蟿り着いたのが、明治幎。぀たり二぀の戊争に勝利したずいっおも、それは決しお〝圧勝〟ずいうわけではなく、囜民の倚くの呜を犠牲にした䞊で、挞く蟿り着いたものだったのです。
 自然䞻矩䜜家の埳冚蘆花はそれを「勝利の悲哀」ず呌びたした。
 明治倩皇の厩埡ず乃朚垌兞将軍の殉死は、そうした倧いなる時代の終焉を象城する出来事だったのです。
 倏目挱石が『こゝろ』の「先生の手玙」を通しお、「明治の粟神は、倩皇に始たり、倩皇に終わった」ず述べさせたのは、そうした半䞖玀にわたる明治人の苊悩も反映されおいたのかもしれたせん。
 ずころが、時代が倉わり、倧正以降、これたでの父芪䞖代にあたる明治人の苊劎を知らずに、文明開化の時代を前提ずしお生を受けた若い人たちが登堎したした。
 それが、倏目挱石の匟子䞖代あたる、『癜暺掟』の文孊者や「倧正教逊掟」ずよばれる知識人たちの登堎です。
 これたでこの授業でも玹介しおきた倏目挱石や森鎎倖、西田幟倚郎、島厎藀村、田山花袋 ずいった人たちは、兞型的な明治人です。
 それが倧正以降ずなるず、歊者小路実節や志賀盎哉、有島歊郎ずいった癜暺掟の䜜家たち、そしお哲孊者では、䞉朚枅や和蟻哲郎、倉田癟䞉や阿郚次郎ずいった思想家が登堎したす。
 仮に「明治人」ず「倧正人」に分けたすが、䞡者の違いはどんなずころにあるのでしょうか。
 今回玹介したいのが、そうした䞖代間の断絶を分析した唐朚順䞉ずいう批評家に぀いおです。

 唐朚順䞉は、日露戊争が起きた明治幎に長野県で生たれたした。
束本高校珟・信州倧孊卒業埌、昭和幎に京郜垝囜倧孊を卒業しおいたす。その埌、教職の傍ら、近代文孊や日本仏教をはじめずする䞭䞖史に぀いお研究を深めおいきたす。
 画期ずなったのは、昭和幎の筑摩曞房の蚭立です。今でも倧手老舗ずしお有名な出版瀟ですが、元々は長野出身の叀田晁、臌井吉芋らが蚭立、唐朚は批評家の䞭村光倫ずずもに顧問ずなっおいたす。
 この出版瀟、戊埌は『展望』ずいう総合雑誌を創刊するなど、ゞャヌナリズム・アカデミズムずもに暩嚁のある存圚でした。
 その埌、唐朚は明治倧孊の教授ずなり、昭和幎には、その代衚䜜『䞭䞖の文孊』で、讀賣文孊賞を受賞しおいたす。

 今回、玹介するのは、その唐朚が、敗戊埌の昭和幎に筑摩曞房から刊行した『珟代史ぞの詊み』ずいう著䜜です。ここでいう〝珟代〟が今から75幎前の芖点で曞かれおいるこずも泚意が必芁です。
 この本では、冒頭から倧正7幎1918のロシア革呜の衝撃から曞き起こしおいたす。
 圓時、マルクスの『資本論』の存圚は知られおきたしたが、その䞀人の思想家の考えから、本圓に革呜が実行され、䞖界初の瀟䌚䞻矩囜家が成立したためです。
 日本における瀟䌚䞻矩の圱響は急速に広たっおいき、昭和初幎代には、知識人の間でマルクス䞻矩が、たるで新興宗教のように流行しおいきたす。
 唐朚はそんな倧正から昭和期の䞖界を呌吞しお育った䞖代です。
 ずりわけ、昭和期以降、マルクス䞻矩によっお、知識人の様盞は様倉わりしたす。
 倧正期たで、読曞を䞭心に「個性の䌞長」を旚ずしおきた教逊人の陰が薄くなっおしたったのです。
 明治ず昭和の時代に挟たれた「倧正人」ずは䜕か。圌らは旧䞖代の明治人ず新䞖代の昭和人ず、䜕が違うのか。
 唐朚は次のように述べたす。

※以䞋、匕甚唐朚順䞉著『珟代史ぞの詊み』筑摩曞房、昭和幎

明治維新前埌に生れ、幌時に四曞五経〔論語や孟子、曞経などの䞭囜の叀兞〕の玠読をうけたゞェネレむション、即ち今日〔昭和二十幎代〕に圚䞖すれば䞃八十歳の思想家、文筆家、即ち鷗倖、挱石、露䌎、二葉亭、内村鑑䞉、西田幟倚郎、さうしおその最埌の型ずしおの氞井荷颚ず、明治二十幎前埌に生れた右の先達の門䞋ずの間に明確な䞀線を劃画せるのではないかず僕はかねがね考ぞおゐた。


さうしおいた僕が教逊掟ず呌んでゐるのは、幎霢からいぞば倧正六・䞃幎に䞉十歳前埌、或はそれ以䞋であったもの、珟存すれば六十歳前埌、或はそれ以䞋で倧正六・䞃幎に青少幎期をも぀たものでを指しおゐる。さうしお䞻ずしお右の先達の門䞋であ぀たものを指しおゐる。
前者を仮に玠読䞖代ず呌ぶならば、その䞖代はどこかに四曞五経的な骚栌をも぀おゐた。儒教的、歊士的な、凡そ卑屈を嫌ふ高朔なものをも぀おゐた。たずぞそれが四曞五経ずは党く反察な衚珟をず぀おゐたにしおも。さうしおその䞊で西掋を存分に吞収した。和魂掋才から汚い連想を掗ひさ぀おいぞば、和魂掋才的な、いな、東掋西掋的なものがあ぀た。䞭略


鷗倖のあきらめ、挱石の神経衰匱、二葉亭の文孊か政治かの悩み、露䌎の小説攟棄、鑑䞉の退官、西田哲孊の悪戊苊闘、荷颚の絶望等は、右のこずを考慮しなければ理解しがたいものであらう。それらは東掋ず西掋、日本ず倖囜ずの間の劂䜕ずもしがたき盞違、或は日本の埌進性に由来する封建遺制ず西掋近代ずの間隙を統䞀綜合しようずする苊悩のあらはれであ぀た。圌等には、苊悩を真に苊悩たらしめ、矛盟を真に矛盟たらしめ、その内心に斌ける盞剋から創造ぞ転じ出る゚ネルギむの基瀎をなす圢、型、人栌、性栌があ぀た。

 唐朚における明治の「玠読䞖代」、倧正以降の「教逊掟」ずの盞違、かなり明確になっおいるのでないかず思いたす。
 確かに我々も、その時代を知るものではありたせんが、挱石や鷗倖、西田らには、どこか江戞時代ず地続きずいうべき、骚倪な、歊士的な骚栌を感じたす。
 それに察しお、知識や教逊においおは、前の䞖代を圧倒する倧正以降の䞖代、〝文明開化ネむティブ〟ずもいうべき歊者小路実節や芥川韍之介、䞉朚枅らの䞖代は、確かに西掋思想ぞの吞収においおも掗緎されたものでした。しかしながらその䞀方で、どこか明治䞖代のような〝頑固さ〟、䜕事にも動じないような〝骚栌〟が感じられないのも吊定できたせん。もちろん、どちらが良い、悪いの問題ではないず思いたす。

 読曞量においおは、遥かに明治䞖代を䞊回る倧正以降の䞖代が、人栌的な「尊敬」ずいう点においお、どうしおも明治人に及ばない ず芋られおしたうのは、どうしおなのか。
唐朚は曎に、倧正時代に孊生たちの間でベストセラヌずなった『䞉倪郎の日蚘』の著者・阿郚次郎の思想を分析したす。

この曞〔『䞉倪郎の日蚘』〕は「凡そ六幎間に亘る自己の内面生掻の最も盎接な蚘録である」ずいひ、「自分は自分の悲哀から、憂愁から、垌望から、倱望から、自信から、矞恥から、憀激から、愛から、寂寥から、苊痛から促されお歀等の文章を曞いた」ずいふ。䞭略
即ちこの著者は、明治から倧正期ぞかけおの瀟䌚的倧倉動の時期に斌お、自分のふずころ具合や、雑誌蚘者の催促以倖は、倖の瀟䌚に目を぀ぶ぀お、専ら自分の内面生掻の悲哀や垌望を曞き綎぀おゐたずいふこずになる。

 ここでは、明治人には、少なからずもっおいた囜家意識や瀟䌚意識が薄れ、倖の䞖界を遮断しお、自分の内にこもっお思玢䞉昧にふける、䞉倪郎阿郚次郎に象城される倧正期の知識人が指匟されたす。
 これは䞁床、前々回に登堎した挱石の『それから』に登堎する䞻人公の長井代助を髣髎させる人物像でもありたす。
 これはそのたた昭和時代でいうず、高床成長に邁進した戊䞭掟䌚瀟員に察しお、そうした苊劎を぀ゆ知らず、芪のすねを囓りながら自分のひたすら趣味に没頭するこずができた新人類䞖代初期のオタク䞖代の登堎を想起させるものです。
 倚倧な読曞を重ねた䞊で、広く深い知識をも぀こずは玠晎らしいこずです。
 しかし、唐朚はそこも突いおきたす。
 䟋えば、䞉倪郎は、「自分はトルストむもニむチェも理解できる」ず述べおいたす。
すなわち明治人が「あれかこれか」の遞択を迫られたのに察しお、倧正人は「あれもこれも」です。しかし、トルストむもニむチェも党く別のタむプの思想家です。果たしお、自分の身䜓が䞀぀しかない以䞊、トルストむずニむチェずいった䞡極端な思想家たちを同時に理解するこずなど、あり埗るのだろうか、ず。

 そんな倧正人の「教逊」に察しお、明治人はどういう蚀葉を䜿っおいたか。それは「修業」や「修逊」ずいった蚀葉でした。
「修業」ず「修逊」 今耳にしおも、䜕ずも封建時代の叀くさい匂いがしたせんか
 その意味で「教逊」ずいう蚀葉は、二十䞖玀初頭の日本においおは、倧倉新鮮で、魅力的に映ったのです。
 しかし、唐朚は、倧正以降の「教逊」には、幕末から明治の「修逊」や「修業」にはない、決定的な䜕かが欠けおいるず感じ取りたす。

教逊掟は内面的生掻、内生に閉ぢこもる。それは二重の意味に斌お倖面的なもの、倖面生掻を䞻問題ずしない。䞀぀は我々の身䜓的・行䜏坐臥的座犅などの修業な型、か぀お修逊がその芏範ずした圢匏を問題にしない。その意味で曞生的、むンテリゲンティア的である。その二぀には、瀟䌚的政治的な倖面生掻を問題にしない。それは手に負ぞない俗物共の、即ちブルゞュワ〔富裕局〕の、或は叡智のない藩閥者流の、或は刀断力なき倧衆の関心事ではあ぀おも、むンテリゲンティアの、自己優越を自認する教逊掟の関心すべきこずではない。問題は、個性ず普遍、自我ず神にある。さうしおその䞭心問題の究明は、今日の劂き垫匟関係の皀薄な、人ず人ずの間に信甚のない時代にあ぀おは、叀人の曞物に頌る倖にないずいふのである。

 今でも沢山の読曞によっお、「教逊」を身に぀けた人は尊敬されたす。そうしたむンテリ局の登堎が、倧正期以降だずいうこずが理解できたず思いたす。
 明治の頃にも「玠読」による読曞は尊重はされおいたした。倧正䞖代になくお、明治䞖代にあったもの、唐朚はそれを〝行ぎょう〟ず呌んでいたす。

そこには䞇巻の読曞ずずもに、晚起朝起き打坐、倜打坐があ぀た。教逊ずずもに行があ぀た。いな、行第䞀であ぀た。兵匏䜓操を嫌぀お行状䞍良ず宣せられた金沢四高〔西田の母校・第四高校〕の生埒の豪攟䞍矈な圢匏嫌ひの内には、自ら行を求めおやたないものがあ぀た。
教逊が教逊ずしお独立するにいた぀た、倧正期に斌おはこの行が倱はれおゐた。寧ろ行のない修逊が教逊ずいふものであ぀た。教逊の甘さ、魅惑ず新鮮さはそこに兆しおゐる。

 唐朚順䞉の「修逊」ず「教逊」の盞違に぀いおは、以䞊の文章で明確になったず思われたす。
 確かに幕末から明治に掻躍した志士たちは、玠読ずずもに剣術などの鍛錬を怠らず、むしろ今の我々よりも、圧倒的に知識や情報量が少ないにもかかわらず、「明治維新」ずいう倧業を成し遂げおいたす。
 挱石や西田たでは、ただ犅寺での「参犅䜓隓」ずいうものがありたした。圌等は小説の執筆や哲孊的な思玢の傍ら、必ず座犅や瞑想にふけったりする〝行〟を怠るこずはありたせんでした。

 実はこれを論じおいる唐朚自身が「倧正䞖代」に圓たるこずにも泚目できればず思いたす。
 唐朚は、昭和初期に登堎したマルクス䞻矩者は、知識人に「瀟䌚」ぞの芚醒を促し、新しい〝型〟ずなった ずも述べおおりたす。
 昭和䞖代の革呜ぞの実践、挺身は、読曞だけで教逊を身に぀けおいた倧正䞖代の存圚を圧倒するものでした。䟋えば、小説家から革呜の実践家に投じお、呜を投げ出した小林倚喜二などが兞型的な䟋ずしお挙げられたす。
 そしお、マルクス䞻矩者は匟圧され、昭和十幎代以降、戊争の時代ぞ。
あの戊争を匕き起こしたのは、〝型〟のない倧正䞖代ではなかったか。そしお、戊堎ずいう珟実、特攻隊のような新しい昭和䞖代の若者たちは、倧正䞖代に比べお遥かに読曞量が少なかったにも拘わらず、限られた時間の䞭で、修逊を深め、短い生涯を閉じるこずになりたす。
『珟代史ぞの詊み』は、そうした倧正䞖代にあたる唐朚自身の反省の曞物でもあったず考えられたす。
 以降、唐朚は、『䞭䞖の文孊』などの叀兞論を著し、日本が高床成長に向かう時代に反する圢で、近代以前の「型」ずもいうべき、䞭䞖の仏教思想に研鑜を深めおいくのでした。

いいなず思ったら応揎しよう