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74「東宮の下賜金」


タイトルの図は森鷗外記念館のポスターを勝手に使わせて頂きました。


(明治33年11月)
11日。日曜日。雨。東禪寺の住職・釋文器が碧巖録を東禪寺で提唱(説法)がこの日より始まった。文器は片山氏の出身。
11月1日の賀古への手紙にも、
「サンスクリットはポツポツ獨學はかどらず来週よりは小生同志者のために心理學講義を開く又曹洞の一僧ありて碧巖集(禪學)の講義を開くなど多少おもしろき事も之有候」と、心理学を講義していることや文器から碧巖集の講義を受けている事を書いています。

金子白夢(ピラミッドの友より)


鷗外さんと一緒に東禅寺を訪ねた金子白夢の個人雑誌『全人』終刊記念号(地上社、大正13年10月)「私の読詩生活」に「K市の東禅寺の老僧に片山文器と云ふ師家があつて『碧巌録』の提唱を公開しておられた。(略)丁度其の頃森鷗外先生が第十二師団の軍医部長としてK市に赴任されて来、鍛冶屋町の借家に住んで居られた。(略)片山老師に提唱を聞くやうになつたときも私が其の提唱があると云ふ事を話したので、態々わざわざ東京の森江書店から『碧巌集種電鈔』を二部取り寄せて、それを携へて先生と共に能く東禅寺の門を潜つたものだ」(過去にも引用)との文があり、金子と一緒に仏教を学んでいたことがわかります。
東禅寺の宗派は曹洞宗で、安国寺の末寺。小倉・堺町にありましたが、火災で廃寺になっています。
松本清張の「或る『小倉日記』伝」に「白川病院の看護婦山田てる子は、取材に行き詰まった田上耕作を東禅寺に導き、当時鷗外たちが寄進した魚板を発見する」場面に登場します。

東禅寺あたりの地図(昭和10年)

東宮主事中田直慈から書簡が来る。それには「一金三十円也。右は過日御地へ行啓の節、供奉員本居侍講發病の爲め、治療方内々貴官へ御沙汰被爲在、貴官始め莊田二等軍醫正吉田富田田嶋三軍醫治療に従事相成、看護診療共に其宜を得て、早速全快被致候は、必登貴官等の御盡力に付、右慰勞として前書目録の通り内賜相成候條、可然御取計相成度、此段中進候也。明治三十三年十一月八日。 東宮主事中田直慈。第十二師團軍醫部長森林太郎殿。追て送金の儀は、貴官宛発便為替にて振込置候條、爲念中添侯也」とあった。先日の本居の病の際、軍医部の皆が一生懸命看護治療に当たったのに対するお礼に金30円を下賜するのこと。そこで賜わった金を5人で分けて各家に送った。
夜風雨。
※軍医1人当たり60円下賜されたのですが、当時60円あれば白米10キロ1円10銭として540キロ買えるほどの価値がありました。現在は米の価格が大変動して5キロが3,000円として32万円くらいでしょうか。ご褒美としてはかなり多いです。それだけ大正天皇の師である本居豊頴を看病した第十二師団の軍医たちの働きが感謝されたということですね。
本居は江戸後期の国学者で「古事記伝」を著した本居宣長の曾孫。
中田直慈は弘化4年(1847)、羽後亀田藩士の子として亀田城下(秋田県由利本荘市)に生まれる。幼少より学問を好み、長じて藩校長善館の教授となり、後に学監を務めている。また、戊辰戦争にも参加し、槍の名手として名を馳せた。
 明治3年(1870)に上京し、平田篤胤門下に国学を学んだほか、大学南校(東京大学)へ遊学。
 その後、山梨県で官職として務め、大蔵収税属、明治17年(1884)より、鹿児島、岐阜、熊本の収税長を歴任、明治29年(1896)には宇都宮税務管理局長を務めている。
 明治30年(1897)、宮内省で内蔵助兼調度局主事、後に大正天皇の東宮主事を務め、最後は内大臣秘書官と宮内書記官を兼務している。


12日。急に寒くなった。名刺を井上中将邸に入れ先日の宴の謝意を示した、依田の肩の状態を尋ねた。
13日。参謀高山公通来訪。かつて陸軍大學校にいた時私の講説を聴いたという。昼時、皇太子殿下より酒肴をいただいた。夜高橋(直門)が来て自分の身上の事を話す。
※参謀として第六師団から転任してきた高山公通(たかやまきみみち)は1867(慶応3)年8月生。鹿児島県出身。1886年8月に陸軍士官学校を卒業し、1889年7月に歩兵少尉・歩兵第23連隊付。1894年の日清戦争には歩兵第23連隊付として出征した。1899年10月に陸軍大学校を卒業し、1900年に第12師団参謀、1902年少佐に昇格。1904年の日露戦争では、第二軍司令部付満洲軍政委員、1905年後備混成第八旅団参謀長を務める。1908年には第4師団参謀長、大佐に昇格した。1914年8月に陸軍中将に昇進し、1916年に関東都督府陸軍参謀長に就任します。(アジア歴史センター)
14日。喧晴(晴れ渡る)。午後、製鉄所長官・和田(維四郎)を大蔵に訪ねたが会えなかった。
15日。北方に徃く。家に歸る後、雨ふる。やゝ時雨めきたり。夜風起る。
16日。昧爽(早朝)みぞれふる。夜雨。福岡日々新聞主幹高橋光威来訪。
17日。雨。
18日。日曜日、晴。
19日。晴。
20日。雨。
※高橋光威は1867(慶応3)年、新潟県生まれ。1893(明治26)年に慶應義塾大学部法律科を卒業。博文館に入社、新しく設立した通信社である内外通信社で主幹に抜擢された。内外通信社を退社後、1895年から福岡日日新聞の主筆。7年間の福岡生活の間、当時の新聞記者としては珍しくアメリカ・イギリスへの視察を行い、「欧米産業「トラスト」ニ関スル取調報告」という報告をしているほか、地方紙として初めて輪転機を導入した。

高橋光威(新発田市デジタルアーカイブ)


1902年に福岡日日新聞を退社後、社長であった原敬に認められて翌1903年に大阪毎日新聞に入社。1906年に成立した第1次西園寺内閣で原が内務大臣に就任すると、原の内務大臣秘書官となる。1908年衆議院議員、1918年に原内閣が成立すると、内閣書記官長に就任した。1932年死去。
訳書に「ロビンソンクルーソー絶島漂流記」、著書に「貝島太助翁の成功談 炭鉱王」がある。

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※参考  小倉日記(岩波版、筑摩版、北九州森鷗外記念会版) 職員録 国会図書館 文化遺産オンライン デジタル版 日本人名大辞典  豊前人物志 近代文献人名辞典 行橋市デジタルアーカイブ  近代日本人の肖像 劉寒吉「神と人の記録」 新発田市デジタルアーカイブ  値段の風俗史 アジア歴史センター





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