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短編小説 雪駄の音

 神田の裏長屋に、喜助という履物職人住んでいた。

 五年前の火事で右の膝を悪くしてから、遠くへ歩くことができない。杖をついている姿を見れば、誰もが年寄りと思うが、まだ四十七である。

 喜助には、お絹という一人娘がいた。
 三年前、その娘が長屋を出ていった。
 喧嘩別れだった。

「もう知らないよ、おとっつぁんなんか!」

 あの日、戸口でお絹はそう言った。
 喜助も意地になっていた。

「好きにしろぃ!」

 それが、最後の言葉になった。
 お絹は浅草の小間物屋へ奉公に出た。
 それから三月ほどして、一度だけ手紙が届いた。

『おとっつぁん、お達者で』

 それだけだった。
 喜助は、その一行を何度も読み返した。

 だが、それきり便りはなかった。
 それでも喜助は、毎夕、店を閉めると長屋の表へ出た。

 長屋の角には、大きな柳の木がある。
 そこに杖を立てかけ、道の向こうを見る。お絹が帰ってくるなら、ここを曲がってくるはずだった。

「また、待ってるのかい?」

 向かいの長屋のおとくが声をかける。

「ああ」
「あれから三年だよ?」
「そうさなぁ」
「もう、諦めな」
「親が子を諦める道理があるか?」

 喜助はそれだけ答える。
 おとくは、ため息をついた。

 喜助が待っているのは、娘が帰ってくると信じているからではない。帰ってきたときに、自分がいなかったら困ると思っているのだ。

 それだけだった。
 ある、冬の夕方。

 江戸には珍しい、細かな雪が降っていた。
 喜助はいつものように柳の下に立っていた。

「おや、冷えてきたと思ったら雪まで落ちてきやがって。今日はもう、中へお入りよ」

 おとくが伝法に言った。

「風邪をひいちまうよ?」
「もう……少しだけだ」
「毎日そればっかりじゃないか」
「今日は……何となくな」

 喜助はそう言って、道の先を見つめた。
 すると、雪の向こうから女が一人歩いてきた。
 古びた着物、小さな風呂敷包み、俯けた顔。

 喜助は目を細めた。
 そして、杖を握り直した。

「……お絹」

 女の足が止まった。
 ゆっくり顔が上がる。

 三年前の面影は残っている。だが、頬はこけ、ひどく痩せていた。
 それでも、喜助には一目で分かった。

「おとっつぁん……」

 その一言を聞いた瞬間、喜助の顔から力が抜けた。

 何か言おうとした。
 だが、声が出ない。
 お絹も俯いたまま動かなかった。

 やがて、かすかな声がした。

「……帰ってきちゃ、いけなかった?」
「何を馬鹿なことを……」

 喜助はようやく言った。

「寒いだろ」
「うん」
「腹は減ってるか」
「……減ってる」
「そうか」

 喜助は頷いた。

「なら、帰ろう」

 それだけだった。

 親子は並んで歩き始めた。
 喜助の歩みは遅い。
 お絹も、それに合わせた。

 しばらくして、お絹が言った。

「おとっつぁん」
「何だ」
「私ね、奉公先を逃げてきたの」
「そうか」
「叱らないの?」
「帰ってきた娘を叱る親があるか」
「でも、勝手に出ていって……三年も……」

 喜助は黙っていた。

「手紙も、あれだけで……」
「あれで、十分だ」
「え?」
「『おとっつぁん』って書いてあったろ」
「……うん」
「お前が、俺をまだ『おとっつぁん』と呼んでくれた。それだけで十分だよ」

 お絹は何も言わなかった。
 ただ、袂で顔を覆った。

 長屋へ戻ると、喜助は火鉢に炭を足した。

「そこへ座れ」
「うん」
「飯を炊く」
「私がやる」
「いいから、温まっておけ」

お絹は小さく頷いた。

 その夜。
 久しぶりに二人で飯を食った。
 
 白飯と、大根鍋。
 鍋と言っても、塩で下茹でした大根を昆布だしで煮て、しょうゆと粉山椒を振りかけただけの簡単なものだ。

「大根がこんなにおいしいなんて……」
「そうか」
「うん」

 喜助は娘の顔を見ないようにして、飯を食った。

 翌朝。お絹が目を覚ますと、枕元に一足の雪駄が置いてあった。真新しいものだった。

「これ……」
「お前のだ」

 喜助は火鉢の前で、一口茶をすすった。

「いつ、作ったの?」
「さあ、なあ……」

 お絹は雪駄を抱きしめた。


 その次の朝、おとくは珍しい音に、洗濯の手を止めて顔を上げた。

 ぺたり、こつん。
 ぺたり、こつん。

 長屋の角を、父娘が二人で歩いていた。
 喜助は杖をつき、お絹は新しい雪駄を履いている。

 ぺたり、こつん。
 ぺたり、こつん。

 雪の残る道を、二人はゆっくり歩いていった。

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