21世紀のカフェ・ロイヤルを見た
私の好きな作家の一人は、サロンの申し子だった。
私は、オスカー・ワイルドを信仰している。
卒論もワイルドで書いた。
もっとも、今思うと論文というより感想文だった気もする。
あれで卒業させてくれた教授には今でも感謝している。
その教授の口頭試問での一言目は、
「君、僕の授業とったことないよね」だった。
私はあの教授を避けていた。
そのせいで、卒論でフィッツジェラルドを選べなかったのだ。
(いや、そんな理由では決してない。)
結局、卒論の口頭試問では人生相談をして終わった。
ワイルドは小説家であり、劇作家であり、そしてサロンの人だった。
人々は彼の作品を読んだ。
けれど、それと同じくらい彼自身を見たかったのだと思う。
最近、noteを読んでいて、少しだけそれを思い出した。
もちろん、十九世紀ロンドンとnoteを並べるのは無理がある。
けれど、小説を書いている人が音楽の話を書いていたり、お酒の話を書いていたり、犬の写真を載せていたりする。
みんな、書きたいことを好きな文体で書いている。
私は小説も文学も比較的、読んできたと自負している。
今でも好きだ。
けれど最近は、noteが楽しい。
完成された作品というより、誰かが今まさに考えていることに触れている感覚がある。
まだ乾いていない文章。
体温の残った言葉。
それを読んでいると、なんだか汗を浴びているような気持ちになる。
もちろん、見えない人もいる。
作品だけを置いていく人。
自分のことをほとんど語らない人。
私はそういう人の美学も好きだ。
だからだろうか。
そういう人が、noteの誰かに感謝しているのを見ると、少しゾクっとする。
作品の向こうにいたはずの人が、一瞬だけ姿を見せる。
勝手なものだと思う。
見えないことに惹かれながら、見えた瞬間にも惹かれてしまうのだから。
本当は私も、作品だけ置いて帰るつもりだった。
オリジナルの創作は自己満足だ。
誰にも届かなかったとしても、多分私は書く。
だから雑記を書くつもりもなかった。
けれど気づけば、人の雑記を読んでいる。
そして、こんな文章まで書いている。
近代のサロンが本当にこんなものだったのかは知らない。
ただ、作品のまわりに人がいて、それぞれが好きなことを話している場所だったのなら。
案外、似たようなものなのかもしれない。
相変わらずコメントは苦手だけれど、スキはしまくっている。
ワイルドを見つめるような視線で、人々の交流を壁から見るのだ。
でも、ひとつだけ、全く読んでないジャンルがある。
競馬の予想。
私には必勝法があって、ずっと負けていないからだ。
宝塚は、ダノンデサイルとメイショウタバルのワイド一点をとった。
