商業施設論──公園という中立地 part1
Urban Life & Commerce Column
日常と非日常と、公園という中立地
──「ハレ」と「ケ」の間で、都市の消費地図はいま静かに塗り替えられている
2026.04.29 商業施設 都市論 公共空間
「ハレ」の論理と、その外側
長年、百貨店やファッションビルの現場に立ってきた者として、商業施設を語るとき、どうしても「トレンド」「消費喚起」「メディア露出」という軸で考えてしまう癖がある。それは都市機能論の文脈であり、「ハレ(非日常)」の消費をいかに演出するかという問いだ。キラキラとした空間、特別感のある体験、非日常をそっと差し出す装置。商業施設の仕事とは、ながらく、そういうものだった。
だが、立ち止まって考えてみると、もう一方の消費導線のことを、私は少々後回しにしてきたかもしれない。それが「ケ(日常)」だ。就労時間の外側にある時間──家族と過ごす夕方、近所を歩く休日、子どもを連れて出かける週末。そういった時間の中にある、もっと静かな消費の地平。「普通でいい」と思っている人々の、当たり前の生活の輪郭だ。
衣料品や消費財の民主化が進んだいま、トレンドを追いかけることへの親近感を持たない層は決して少なくない。イノベーター理論でいえば、分母を支えるラガード層がそれにあたる。市場はその人々の上に成り立っている。にもかかわらず、商業施設の語り口は「ハレ」側に偏りがちだった。柳田國男が「ハレとケ」の概念で日本人の生活原理を説いたように、消費の世界にも、その両輪がある。
「ゆりかごから墓場まで」という言葉が、
いま商業施設のキーワードになろうとしている。
LTVという視点の登場
商業施設が「人生のステージごとの消費提案」へと軸足を移しつつある。幼少期から老年期まで、一人の人間の人生に寄り添い続けるという発想──これをマーケティング用語では「LTV(顧客生涯価値:ライフタイムバリュー)」と呼ぶ。かつての百貨店が年齢や性別で売り場を区切っていたとすれば、LTVの視点はその縦割りを崩し、時間軸で顧客を捉え直す試みだと言える。
幼少期を施設で過ごし、やがて異性を意識しながら着飾ることを覚え、恋愛し、結婚し、子どもが生まれ、祖父母の財布が加わる。その消費の連なりを「一人の人生」として設計する。そこには、インバウンド需要のない限り施設間競合が激化する今日の状況への、正直な危機感もある。
ロードサイドという「ケ」の現場
都市の高架下や一等地の商業施設がLTVを語るとき、もう一方の生活導線はどこにあるか。それがロードサイドだ。しまむら、西松屋、100均、携帯電話店、スーパー、ラーメン店──。華やかさはないが、そこには生活の必要が凝縮されている。
ユニクロはかつてロードサイドの顔だったが、アーリーアダプター向けの商品展開を通じて都市型へと軸足を移した。一方、しまむらは「バースデイ」を擁しながら、日常性の覇者であり続けている。一時期「しまラー」ブームが起き、都市型への転換も選択肢にあったはずだが、そこに踏み出さなかった。それが正解だったかどうか、今でも判断は難しいが、少なくとも「ケ」の領域を守り続けたことに一貫性はある。
【補足】二つの消費導線の分岐
「就労導線」と「生活導線」は、長らく交差しながら進んできた。都市の百貨店が縮小し、高架下施設が付加価値を高める一方、地方のロードサイドには価格と利便性を重視した「日常消費」が根付いた。消費の衰退というよりも、役割分担が進んだと見るほうが正確かもしれない。対面と格式を伴う「ハレ」の消費は都市へ、価格と利便性を重視した「ケ」の消費は地元へ。その構図は、静かに定着しつつある。
公園という、どちらでもない場所
そのような消費地図の変容の中で、近年、公園の存在感が増してきたように感じる。
公園は、
・就労導線からは「癒しと休息のスポット」
・生活導線からは「子どもの遊び場」や「健康のためのランニングコース」
として機能する。
どちらの文脈にも属しながら、どちらにも偏らない。それが公園の稀有な性格だ。
就労導線側では、大阪のグラングリーンや阪急百貨店の祝祭広場など、緑と開放感を取り込んだ施設が高い評価を得ている。
生活導線側では、Park-PFI(公募設置管理制度)を活用した既存公園のリニューアルが各地で進み、快適に過ごせる公共空間として見直されている。
この二つの導線が交差するモデルとして注目したいのが、東急田園都市線・南町田グランベリーパーク駅を核に整備された「南町田グランベリーパーク」だ。東急電鉄と町田市が連携し、駅・商業施設・都市公園を約22ヘクタールにわたって同時・一体的に再整備したこのプロジェクトは、2019年11月に全体開業した。都内最大のアウトレット複合商業施設「グランベリーパーク」に隣接して、東京ドーム約1.5個分の広さを持つ「鶴間公園」が配置されている。ショッピングを楽しんだ後にそのまま芝生に寝転んだり、子どもを遊具で遊ばせながら親がテイクアウトのコーヒーで一息ついたりする風景が、ここでは自然に生まれる。消費の場と「ただいられる場」が、官民の境目なくシームレスにつながっている点が、従来の商業施設とは決定的に異なる。
公園は「ハレ」でも「ケ」でもない
都市の中立地だ
── 消費導線の交差点に、緑がある
都市生活者が求める癒しの質が変わってきている、ということかもしれない。商業施設が「特別な体験」を売ろうとするのに対し、公園はただそこにある。その「ただそこにある」という受動性が、いま改めて価値を持ち始めている。
「ハレ」と「ケ」の消費構造が成熟し、役割分担が明確になったからこそ、どちらにも属さない公共空間の意味が浮かび上がってくる。
商業施設が何かを「売ろうとする」場所だとすれば、
公園はただ「いられる」場所だ。
その違いは、思いのほか大きい。
消費の地図を描き直すとき、公園の位置をどう置くか──それが、次の都市論の問いになるのかもしれない。
Text & Edit ── Column by Yoichiro Ishizawa
Published 2026.04.29
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