イカズチ物語第四十三章
夕暮れの城下町に、一筋の刃が閃いた。
朱の打掛が風をはらみ、桜の花びらが宙を舞う。
その中心に立つ姫――二階堂家の桜雅は、抜き放った刀を静かに正眼へ構えていた。
嫁入りの翌日。
城の中庭には家臣たちが集まり、誰もが息を呑んで彼女を見守っていた。
「姫君。本当に、おやりになるのですか」
老臣の問いに、桜雅は涼しい顔で答えた。
「私は飾られるために、この城へ来たのではありません」
声は穏やかだった。
だが、その瞳には二階堂家の誇りと、決して折れぬ覚悟が宿っている。
彼女の前には、城内一と名高い剣士が立っていた。
「姫君とはいえ、手加減はいたしません」
「それで結構です」
開始の合図とともに、剣士が踏み込んだ。
鋭い袈裟斬り。
しかし桜雅は半歩だけ身を引き、紙一重で刃をかわす。
流れるように身体を回し、赤い袖を翻しながら相手の懐へ入った。
金属音が響く。
一合。
二合。
三合。
剣士の力強い連撃を、桜雅は柳のように受け流していく。
力で争わず、呼吸を読み、足運びを見切り、わずかな隙だけを狙う。
やがて剣士が大きく踏み込んだ、その瞬間。
「――そこです」
桜雅の刀が下から跳ね上がった。
剣士の刀が宙を舞う。
次の瞬間には、桜雅の切っ先が男の喉元で止まっていた。
庭が静まり返る。
桜雅は何事もなかったかのように刀を引き、静かに納刀した。
「勝負あり、ですね」
その姿を、縁側から見つめる男がいた。
この城の若き当主――宗景。
桜雅にとって、幼い頃から想い続けた初恋の人。
そして今は、夫となった男だった。
「相変わらずだな、桜雅」
宗景が庭へ下りる。
家臣たちが一斉に頭を下げる中、桜雅だけが少し不満そうに彼を見た。
「相変わらず、とは何です」
「昔から、お前は俺を驚かせる」
「あなたが鈍かっただけです」
「鈍かった?」
「私はずっと、あなたの隣に立つために剣を学んでいたのに」
その言葉に、宗景は足を止めた。
桜雅は普段と変わらぬ冷静な顔をしていた。
けれど、耳だけがわずかに赤い。
「嫁いできたのも、家同士のためだけではありません」
「では、何のためだ」
宗景が一歩近づく。
桜雅は目を逸らさなかった。
「初恋を、終わらせないためです」
宗景はしばらく黙っていたが、やがて静かに笑った。
「桜雅」
「はい」
「俺の負けだ」
「剣を交えてもいないのに?」
「昔から、とっくに負けている」
宗景は彼女の手を取った。
戦の傷が残る、少し硬い手。
幼い頃、何度も彼を助けてくれた手だった。
「俺はこの国を守る」
宗景が言う。
「ならば私は、あなたを守ります」
「夫を守る姫か」
「不満ですか」
「いや。これ以上ないほど心強い」
その夜。
城下に不穏な知らせが届いた。
北方の豪族が兵を集め、この城へ攻め寄せるという。
兵力差は二倍。重臣たちの顔には動揺が浮かんだ。
しかし軍議の席で、桜雅は地図の上へ扇を置いた。
「正面から戦えば負けます」
「では、籠城を?」
「いいえ。敵は数を頼み、街道を一直線に進んでいます。谷へ誘い込み、退路を断ちます」
老臣が眉をひそめる。
「しかし、誰が囮を務めるのです」
桜雅は立ち上がった。
「私が行きます」
「なりません!」
宗景が即座に制した。
「これは命令だ。お前を危険には出せない」
「では、私は何のために嫁いできたのです」
「桜雅」
「守られるだけの妻になるためではありません」
彼女は宗景の前まで歩き、まっすぐに見つめた。
「あなたの背を守り、あなたと同じ景色を見るために来ました」
宗景は拳を握りしめた。
初恋の少女は、いつの間にか誰よりも強い武家の姫になっていた。
「分かった」
宗景は自らの刀を取り、桜雅の隣に立った。
「だが、単独では行かせない」
「当主自ら囮になるおつもりですか」
「夫婦とは、そういうものだろう」
桜雅はわずかに目を見開き、そして静かに笑った。
「では、決して離れないでください」
「ああ」
翌朝。
朝霧の中を、朱の装束をまとった姫武者が駆ける。
その隣には黒馬に乗る若き当主。
二人の背後には、城の精鋭たちが続いていた。
桜雅は刀を抜き、敵軍へ切っ先を向ける。
「我が名は、二階堂桜雅!」
凛とした声が戦場を貫いた。
「二階堂家の門を侵す者は、たとえ何千であろうと通しません!」
宗景もまた刀を掲げる。
「全軍、桜雅に続け!」
鬨の声が大地を震わせた。
その日、朱の姫武者は敵陣を鮮やかに駆け抜け、ただ一人の犠牲も出さずに大軍を谷へ誘い込んだ。
やがて戦は、宗景たちの勝利に終わる。
後の世、人々は二人をこう語った。
若き当主は国を守り、
朱の姫は、その当主の心と背中を守った。
そして桜が咲くたび、城下では一つの物語が語り継がれる。
幼い頃に交わした約束を胸に、
初恋の人のもとへ嫁ぎ、
愛する者と二階堂家の未来を、その剣で守り抜いた姫。
その名は――
二階堂家姫・桜雅
「あなたは、変わらず私の味方でいてくれた。
だから――この想いも、二階堂の名も、命を懸けて護ります。」
