運命の道に誘われて
京都駅から二〇分にある都市の秘境
人はいろいろと先のことを計画するものだが、いつも自分が思うように進むとは限らない。私は「京都市」に隣接する人口九万人程度の「亀岡市」というところに住もうと考えていた。ところがちょっとした手違いがあって、結局はそこには三カ月間しかいなかった。ということで、今はまた元の京都市内に住んでいる。しかし亀岡は、住もうと思っていたくらいだから、当然興味はある。私が亀岡の何に一番関心を持ったかというと、やはりその特殊な立地だった。私が亀岡に住んでいた地域の周りはずいぶん人口が少なくて、目分量でおそらくは五〇世帯ほどが住んでいたと思うのだが、高齢者が多く一世帯で平均では二、三人くらいの家が多かったように見受けられた。
「霧の京都」に浮かぶ「光秀」の居城
私が興味を持った立地のことだが、亀岡と言ってもいろんな場所があって、その中心地となる亀岡市役所近くのJR亀岡駅(山陰線)は、JR線の快速で京都の玄関口である「京都駅」からわずか二〇分の距離にある。私がいたところは、JR亀岡駅から車で五分、歩いても十五分、地名にも「山の坊」という文字が見えるほど急な坂道を登らなければならないので、それくらい時間はかかるが、感覚的には駅はすぐ目の前にあった。軽自動車でも持っていれば駅まで五分で行ける。とはいえ、京都駅から二〇分くらいのところに「深山渓谷」とまでは言えないが、「保津峡」の水源近くの静かな山村が広がっていることに感動する。
「交通立地」が優れていることは、私が実際にこの地に来る前から分かっていたことなのだが、この地に自分の足で立てば、思ってもいなかった見事な歴史が見えてくる。この地には、一七〇〇年前より続く家があり、その家系は今に続いていると聞く。その幻想的な歴史もかなり麗(うるわ)しいが、俗人の私から見ると京都「本能寺」における「織田信長」への謀反で知られた「明智光秀」の所縁(ゆかり)の地であった歴史の方がさらに輝いているような気がする。明智光秀の居城であった亀岡城(亀山城)があり、光秀とかかわりが深かった事物も多いのだが、私の住んでいた家のすぐ裏側の小さな道を、地元の住民や亀岡の人々は「明智越え」と呼んでいる。つまり、明智光秀軍が本能寺攻めで行軍したとされる道だ。あまり観光客が多いようには見えないが、週末には「明智越え」のハイキングコースを訪れる人々に出遭うことがあった。この地には、明智光秀所縁の城郭や屋敷は当然ながら、後に太閤となる豊臣秀吉所縁の民家もあり、信長や光秀、秀吉たちの魂がそのまま、ススキが原でススキの「菊人形」のように立ち尽くしているような趣がある。
本能寺へと光秀を誘う「明智越え」の道
この道を歩くと気になるのがやはり、織田信長のいる本能寺に向かう明智光秀の心情だ。明智光秀は、強大な力を誇った戦国武将ではなかったが、本能寺の変によって、明らかにこの時代の歴史の流れを変えた歴史上の人物となった。その明智光秀が亀岡から本能寺へと進軍する過程で、何を信じて何を成そうとしたのかそれが後世の人々を悩ませる。私自身が亀岡にいた頃、これらの道をどれほど歩いたかと言っても知れたものだが、歩くたびに明智光秀の決断と後の歴史について考えてしまう。
京都には、銀閣寺と南禅寺辺りを結ぶ、二キロほどに渡る散歩道があって、二〇世紀初期の哲学者だった京都大学教授・ 西田幾太郎(きたろう)が、毎朝この道を歩いて思想に耽ったと言われる。いわゆる「哲学の道」だが、世の中には道が心を持ち、その道を歩く人の心に染み入って思いのままに望みを実現しているのではないかと思うことがある。明智光秀も、亀岡から本能寺に至るまでの間、幾度となく自分の決意に逡巡しながらも、山越えの道の思いからは逃れることが出来なかったのだと思う。私も人生において、自分で希望したわけでもないのに、道に誘われたように明確な意思をもって人生を歩んだことがあった。きっとそれは、時代の切迫した求めに応えて歩こうとした自然な流れだったと思う。
確かに人間には、自分の意思ではなく、何かの道の思いにそそのかされるということがきっとある。それはある意味恐ろしいことではあるが、そういう道は世の中に無数にあって、それがまた新しい時代を作っているのだとも思うのだ。
