納骨できなかったのではなく、まだ離れられなかっただけ。
「私が亡くなった時に、一緒に納骨してください。」
四十九日の法要を終えたあと、ご主人は静かにそう話されました。
奥様を亡くされて、まだ間もない頃でした。
納骨のお話をすると、ご主人は、ご自宅で供養を続けたいと希望されました。
住職も私も、そのお気持ちをそのまま受け止めました。
その時のご主人には、まだ奥様のお骨をお墓へ納めることはできなかったからです。
それから、ご主人は毎日、ご自宅で手を合わせておられました。
お線香をあげ、お花を供え、お茶を替える。
時には、奥様に話しかけるように、
その日の出来事を伝えておられたそうです。
奥様がもう帰ってこられないことは、
ご主人も十分に分かっておられました。
それでも、すぐに納骨する気持ちにはなれなかったのです。
私は、その時間もまた、大切な供養だったのではないかと思っています。
ご主人は、一人暮らしになりました。
けれど、ご近所の方々が折に触れて気にかけてくださっていたそうです。
「ご飯を多く作ったから。」
そう言って、おかずを届けてくださる方。
「元気にしていますか。」
と声をかけてくださる方。
何気ないやり取りばかりです。
けれど、その小さな積み重ねが、ご主人の日々を支えていたのでしょう。
悲しみは、ある日突然なくなるものではありません。
けれど、人とのつながりの中で、その重さが少しずつ変わっていくことがあります。
三回忌を迎える前、ご主人からご連絡をいただきました。
「納骨をお願いします。」
その声は、とても穏やかでした。
奥様を忘れたからではありません。
悲しみが消えたからでもありません。
ご自宅で手を合わせる時間を重ね、ご近所の方々に支えられながら暮らす中で、ご主人はご自身の気持ちで納骨を迎えようと思われたのでしょう。
悲しみの歩幅が人それぞれ違うように、納骨を迎える時期もまた、人それぞれなのだと思います。
四十九日に納骨する方もおられます。
一周忌に決める方もおられます。
大切なのは時期ではなく、その人が納得して手を合わせられることなのではないかと、私は思っています。
もし今、大切な人のお骨を前にして、
「まだ納骨できない。」
そう感じている方がおられるなら、自分を責めないでください。
「まだ離れられない。」
そう思うのは、それだけ大切な人だったからです。
その時間は、決して立ち止まっている時間ではありません。
亡くなった大切な人との関係を、
自分なりに結び直していく時間でもあるのだと、私は思っています。
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