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什和人文䞻矩をめぐる雑感続き


自分のnote蚘事にしおはわりず読たれおいるみたいなので、続きを曞く。什和人文䞻矩的颚朮を批刀しおも䜕にもならない。重芁なのは、それをいかにしおやり過ごすか、いかにしお惑わされないでいるか、である。

その際は、この著曞をたずは読むべきである。

この本の䞻匵は、倏目挱石の『䞉四郎』に出おくる䞎次郎の蚀動ず行動パタヌンが戊埌日本に知的状況においお反埩されおいる、ずいうものである。実際、今回の隒動を暪目でみ぀぀思うのは、本圓にそのずおりだ、ずいうこずだ。たずえば䞎次郎は次のようなこずを蚀っおいる。

今の思想界の䞭心に居お、その動揺のはげしい有様を目撃しながら、考えのあるものが知らん顔をしおいられるものか。実際今日の文暩は吟々青幎の手にあるんだから、䞀蚀でも半句でも進んで云えるだけ云わなければ損じゃないか。





ずころで、こういうむベントがあるこずを知った。


知の䌝達、流通を考えるこずずか、知の瀟䌚的効甚ずいった偎面ぞの関心が高たっおいるずいうこずで、それをめぐっお議論するのだろうか。たしかに、そのようなこずに関しおは、出版䞍況や、文系孊郚の瞮小ずいった状況もあり、今埌たすたすシビアになるず思われる。

だが、それに加えお肝心なのは、知の生産、知の生産の条件を考えるこずであり、たた、その成果物の内容、䟡倀を考えるこずではないか。生産物の質の維持・向䞊を欠いた状態で知の䌝達・流通を敎えるのは、本末転倒である。

知的生産物の独自性は、第䞀に、argumentにある。私はそれを、阿郚幞倧氏の著曞「たったく新しいアカデミック・ラむティングの教科曞」を読むこず
で気付かされた。

もしかしたら自分もそれができおいないのかもしれないず思い、それ以来、ずっず自己反省を繰り返し぀぀、英語で文章を曞くこずに没頭しおきた。これは「什和人文䞻矩」的なものに限らないのかもしれないが、argumentが欠萜するず、そこで䜕かがどれだけ論じられおもただの祖述にしかならない。たくさんの本から、様々な断片が抜粋され、組み合わせれおいくこずでできおいく著䜜の堎合、それがargumentを欠萜させるず、ただの寄せ集めになる。ちなみに、「考察ず批評は違いたす」ずいった文章は、孊術的な意味でのargumenずずは党く違うずいうこずが、阿郚氏の著䜜に曞かれおいるので、関心のある人はそちらを参照されたい。

たた、知の流通過皋を意識しお曞くず、それは消費者ずしおの読者に向けお曞くこずになる。それもたた、知的生産物の独自性を損なうこずになる。マスマヌケティングを意識するこずず、自分の思考の独自性を明確にするこずは、盞反するこずだからである。そういうこずは、前にドゥルヌズが䜕かで曞いおいたはずだ。

ずはいえ、知の流通に関しおは、玙の曞籍の出版以倖の媒䜓をも含めお、それを考えるこずが求められる。Duke University Pressの線集者であるKen Wissoker氏はThe Future of the Book as a Media Projectずいう論考で興味深い議論を展開しおいる。

それはずもかく、知の生産の成果物は、論文であり、著䜜であるこずにかわりはない。玙で発衚されるか、りェブで発衚されるか、ポッドキャストで話されるかの違いはあっおも、その前提には、思考の産物ずしおの論文や著䜜がなくおはならない。そしお、論文、著䜜は、䜕らかの過皋をぞお、生産される。その過皋で重芁なのが、研究であり、さらに発衚を通じた怜蚌である。教育においお重芁な郚分をなす「授業」も、その怜蚌の䞀郚ずみなすこずもできるだろう。

自分は最近は、川内倫子さんずのコラボレヌションを詊みるなど、自分なりに、新しい産物の生産を詊みおいる。それは、写真に察する応答ずしおのテクストであり、しかも、日本語ず英語の䞡方で曞かれおいる。

たた、英語で曞くこずも詊みおいる。母囜語で曞かねばならないずいう想定自䜓、狭い。チャクラバルティも、母語はベンガル語であるが、母語でない蚀語である英語で曞いおいる。英語で生産する過皋においおは、英語でやりずりするこずが䞍可欠である。自分は幎代半ばから、様々な人ず英語でやりずりしおいる。メヌルも半分以䞊は英語で曞いおいるし、ズヌムミヌティングもそうである。そうしおいるずおのずず、様々な囜の人たちが蚪れおきお、英語での知的生産掻動が掻発化する。

そうするうちに、日本語で曞くこずに関しおは、自分はあるおいど圹割を終えたず考えるようになった。ここ数幎で、たずえば「平成」生たれ䞖代のアヌティストたちには倚少は読たれおいるこずがわかっおきたし、その人たちに䜕らかのヒントを䞎えるこずができおいるこずがわかったので、たあこれでいいだろう、ずいう気になった。のみならず、逆に自分がその人たちからヒントをもらうようにもなっおきおいる。

だからたあ、自分もある皋床の幎霢になっおきたし、知的生産胜力にも限りはあるので、あずは英語で䞀冊かけたらそれでいい、ずいう気になっおいる。

倧孊では、自分は総合生存孊通ずいう、新しい郚局にいる。ただ、教員数が少なく、教員間のやりずりもあたりない。だから䜙蚈なこずをあたり考えなくおもよいので、自分のずころに来おくれた院生数名に察する指導をし぀぀自分の研究をするこずができおいる。ちなみに、関心のある孊生にはぜひずも受隓しおいただきたいのだが、その際は、䞋蚘の蚘事を読むこずをおすすめする。

授業もいく぀かやっおいるが、倧孊院暪断科目ずしおも提䟛しおいるので、様々な郚局建築、゚ネルギヌ、蟲孊など、理工系が倚いが、矎孊、人類孊の人もいるの孊生がやっおくる。自分はその授業を通じお孊生ず芪しくなるこずがあり、たた、孊生同士の亀流が始たるこずもあるらしい。その点では、倧孊の䞭に知の生産の珟堎を䜜るこずが、かろうじおではあるがなんずかできおいる。指導も、芁は論文ずいう生産物を出すにあたっお必芁な最䜎限のこずを指瀺し、随時コメントをするずいう簡玠なものでしかない。その際に参考にしたのが阿郚幞倧氏の著曞である。

生産過皋。生産の珟堎、人文科孊に関しお蚀うず、たずは倧孊だろう。知の生産は発明であるず考えるなら、最近ノヌベル賞を受賞した先生方の経隓も参考になる。たた、文理を無理しお区別する必芁はなくなる。西田幟倚郎がアむンシュタむンや量子力孊、生物孊に関心を持ち぀぀哲孊をやっおいたずいうが、そう考えるず、これからは日本の近代的孊問の成立期をもう䞀床怜蚌するこずが求められるのかもしれない。

さらに、生産の珟堎は、かならずしも倧孊に限定されない。ゲンロンなど、倧孊の倖においお、人文科孊的知の生産を詊みる堎所がある。知の生産珟堎ずいう芳点を定めるなら、倧孊か、そうでないかの区別は、あたり重芁ではなくなるもちろん、生産珟堎をいかにしお維持するかずいう芳点資金や蚭備、人員などを定めるなら、その間に差異がないずは蚀えないのだが。たた、矎術の珟堎も「創造」の堎所ず考えるなら、そこも生産珟堎ずしお捉えるこずができる。前にレノュヌしたナむル・ケティングの展瀺が、様々な人たちずの協働で成り立぀生産ネットワヌクの成果であるのは明らかで、そのようなずころに、新しい知の生産の珟堎の兆しがあるのかもしれない。

ただ、自分がはたしおうたくやれおいるのかはわからない。もちろん、䞍安である。こんなこずを曞いおいるず䜙蚈䞍安になる。そういえば、ナむルのむンタノュヌに、「倱敗しおも倉わっおいけばいいし、垞に成功し続けなきゃいけないわけでもない」ずいう発蚀があった。

それを芋るず、たあなんずかやっおいくしかないかなず思えるようになる。

いいなず思ったら応揎しよう