巡り廻りて美しき哉【人】⋯牧野伸顕26
『世間では桂のニコポンという卑近な形容をしていたが、つまり人に親近の情を抱かせる一種の魅力を持っていたのである。』(※)
牧野が文部大臣を務めた第1次西園寺公望内閣は明治41(1908)年7月に総辞職し、大命降下により桂太郎が再び内閣を組織することになりました。これに伴い牧野はその職を離れ、延べ30年にわたった目まぐるしい変化と年ごとに増す重責を伴う公人生活から退き、”閑地”につくことなります。このとき牧野47歳、ようやく一息つく時間を得て、保養に出かけたり趣味の囲碁や読書、芸術鑑賞や芸術家や愛好家たちとの私的な交わりを深めたりして粋なる閑を悠々と重ねていたのではないでしょうか。
さて、第2次桂内閣はどのように展開していったのかを少し見てみたいと思います。この内閣は第1次内閣の時と同様に元老の後押しを得て、官僚出身者や貴族院議員らを中心に組織され、割に安定的に政権を運営して3年ほどこれを維持しました。そのポイントの一つにあるのが議会対策です。立憲政友会との調整は第1次内閣でも行われていましたが、この内閣ではより一層、その距離と関係性を近しくしています。桂と対したのは政友会幹部の松田正久、そして原敬。西園寺は未だ総裁ではありましたが、この頃には政治への熱量といった面ではかなり引いており、実際の党運営は松田と原に委ねられていました。特に原は辣腕をふるって党勢拡大を実現し党内外に存在感をいよいよ強めていきます。国内では社会主義がその勢いを増しており、これに対する取り締まりが懸案となるなどし、外交面では韓国併合問題や日米関係に緊張の兆しが見えた頃でもありました。時代の転換点がすぐ近くに迫ってきていました。
明治42(1909)年10月26日、日韓関係のターニングポイントとなる事件が、「暗殺」という形で起こります。明治の新国家建設を率い憲政の段取りを整え、初代を含め四たび内閣を組織するとともに国家的政党の必要を認め立憲政友会を立ち上げるなど、政治に関わる凡そ全ての役割を担った伊藤博文が、ハルピン駅頭で凶弾に斃れ、その激動の生涯を突然に閉じました。翌年8月、桂内閣は韓国併合に踏み切っています。伊藤は牧野にも大きな影響を与えた人物であり、牧野自身その報せに接し一時世の中が真暗になってしまった気がしたとその慟哭を『回顧録』にも記しています。
この翌月、牧野のもとに枢密顧問官へ推薦したいとの意向が桂からもたらされました。桂は当時、枢密院議長をつとめていた元老山縣有朋との調整も済ませており(このあたりもさすが桂の差配の才を感じます)、牧野もこれを受けました。このときの経緯は、いわゆる藩閥政治について牧野がどのように捉えていたのかを含めて残しており、次に触れたいと思います。
ここからは備忘を兼ねて、ちょっと寄り道記録です。先日、学会のシンポジウムに参加したあと、何となく少し歩いてみようかと思い、秋の夕暮れを散策し、皇居外苑付近にたどり着きました。そうしましたら国立公文書館で大日本帝国憲法発布の御署名原本が期間限定で展示されているというので、これのみ見学してきました。

明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法が発布されます。この日は日本がアジアで初めての立憲国家となった日でもありました。御署名原本には伊藤、黒田清隆、松方正義、西郷従道に山縣有朋、森有礼らの名が連なるわけですが、牧野はそこに署名した全ての人物と交わっており、また当時は総理大臣秘書官として発布式にも列席していたわけです。そんなことを連想しながら資料を見ていると、牧野という人物への興味が益々強くなりました。
そしてもう1つ、改めて感じたのが原本と相対することの意義です。公文書館では常設展示でも複製が展示されているのですが、やはり原本を見ると伝わってくるものが違います。この”原資料が持つ力”というものは博物館や社会教育を担う施設が意識して啓蒙していかないといけないところなのではないかと思います。
御署名原本は鳥の子紙というわが国が誇る和紙が使用されているそうです。先日、越前の鳥の子紙がユネスコの無形文化遺産に登録される見込みとニュースが出ていましたが、日本が古来から長く培ってきた製紙技術や墨を用いた署名など、一つ一つのパーツにはそれぞれ意味があるものです。そしてこのパーツは時代毎に変わりゆくものでもあります。それらの遷り変わりも含めて、パーツそれぞれが由来や意味、つながりを持っていることも見えてきます。展示を見るとき、そんな角度からも考えていくとまた一つ深みのようなものが味わえるかもしれません。
(※)『回顧録』下巻 牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10 p.46
参考文献 『回顧録』下巻 牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10、『牧野伸顕』茶谷誠一著 吉川弘文館 2013.11.5
