あるアーティストが教えてくれた「豊かさ」と私の物欲のあいだ
最近、ある著名な前衛アーティストの方と接点を持つ機会があった。
時代の先端で表現を続ける仕事ぶりとは裏腹に、対話の中でふと差し出されたのは、驚くほど静かな問いだった。
「豊かさって何だろうね」
その方は少し間を置いたあと、言葉を続けた。
「私はね、公園でアヒルの親子がピヨピヨ言いながら歩いてるのを見かける。そんなごく普通の光景が、『あぁ、豊かだな』って感じるんだよ、きっとこういうことなんだよ」
第一線で刺激的な価値観を生み出し続けている人物の口から出たのが、拍子抜けするほど素朴な日常の一コマだったことが、強く印象に残った。
権威の言葉か、それとも「本質」なのか
その言葉を聞いた瞬間、私は「確かにそれが豊かさかもしれない」と深く納得した。
しかし同時に、小さな疑問も湧いた。
著名なアーティストが語ったから「確かに」と思えたのだろうか?
それとも、立場を超えた「豊かさの本質」に触れたからなのだろうか?
その答えは、いまだに分かっていない。
肩書に対するバイアスだったのかもしれないし、私の奥底にあった感覚が共鳴しただけかもしれない。
ただ一つ確かなのは、あの日を境に「豊かさ」という言葉の輪郭が変わったことだ。
「手に入れる満足」と「そこにある豊かさ」
思い返せば、私にとっての満足感はいつだって「手に入れること」と結びついていた。
例えば、ずっと欲しかった服を買うとき。
レジを通し、自分のものになったその瞬間にピークを迎える。
けれど「手に入った」途端、その満足感は少しずつ色あせていってしまうことも多かった。
欲しいものを所有して得る満足はどこか消費的で、すぐに次の「欲」を連れてくる。
一方で、あの方が語った「アヒルを眺める時間」は、何かを所有するわけでも、お金を払うわけでもない。
豊かさは「受け取る側の余白」にある
どれほど美しい光景が目の前にあっても、味わう心に余裕がなければただの「背景」として通り過ぎてしまう。
そう考えたとき、豊かさとは「何を持っているか」という対象の問題ではないのだろう。
些細な光景に心を留められる、「私自身の側の解釈と余白」の中に立ち現れるものなのではないか。
服を買う満足感も生活を彩る大切な要素だ。
けれど、それとは違う次元で、目の前の光景を「豊かだ」と感じ取れる心の準備ができていること。
それこそが、本当の豊かさの正体なのかもしれない。
おわりに
あの言葉が真理だったのか、確かめる術はない。
けれど今も、新しい服に袖を通すときや、街の片隅でふと足が止まるとき、私はあの日の会話を思い出す。
そして、静かな光景を「豊かだ」と感じ取れる自分自身の感性に、そっと問いを投げ続けている
一杯のビールでも豊かさについて、同様のことが言えるかもしれない。参考にどうぞ。
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