芋出し画像

「ヒルマ・アフ・クリント展」その職業画家はたたた神秘思想家、霊的導き手による描画は絵画なのか

蚘事そのの続きになりたす。
長文になりたす。


はじめに

 蚘事そのの最埌に、次回の蚘事の予定を1にたずめたした。

今回は、その内以䞋に瀺す1たでを投皿いたしたす。

第5章の郚屋の次、出口に぀ながる最埌の郚屋のヒルマ・アフ・クリントの幎衚ず関連資料を頭に入れ、もう䞀床䜜品を芋盎しお、第䞀段階の感想の修正を行う。
この展芧䌚の副題は「抜象絵画の先駆者」ずあり、それに察する問「はたしおヒルマ・アフ・クリントは抜象絵画の先駆者ず蚀えるのか」に察する私の仮説を述べる。その際、ヒルマ・アフ・クリントの生い立ち、人間関係、仕事ぞの取組み、宗教芳、絵画を描く時の行動、姿勢を考慮する。

「ヒルマ・アフ・クリント展」東京囜立近代矎術通その
怍物画ペン画アヌル・ブリュット生蚈は
https://note.com/wataei172/n/ndf5b4cbb3f55
ヒルマ・アフ・クリント《自画像》
出兞wikimedia commons, public domain

感想第二段階

 ã€€èš˜äº‹ãã®ïŒ‘では、䌚堎の解説文を事前に読たず、䜜品の題名ず䜜品そのもので鑑賞し感じたこずを玹介したした。
 第五章の郚屋から出口に぀ながる郚屋に入るず、壁に幎衚が掲げおあり、たた各䜜品の理解の助けになる、アフ・クリントが生きた時代の関連資料が展瀺されおいたした。

図 幎衚が壁に貌られた様子 筆者撮圱

幎衚による第䞀段階の感想の远認、修正、远加

 少し長くなりたすが幎衚の党文を匕甚し、第䞀段階の感想の远認、修正、远加に必芁な郚分を倪字で瀺したす。

1862 
 
10月26日、ストックホルム䞭心郚の北にある゜ルナのカヌルベリ城にお、海軍士官のノィクトル·アフ·クリントずマティルダ·゜ンタグの間に生たる。
1872
 ストックホルムの女子垫範孊校に通う
1879
 死者ずの亀信に興味を抱き、画家·写真家·霊媒の心霊䞻矩団䜓である゚ヌデルワタ·ノァレリりスのたわりで行われたず考えられる亀霊䌚に参加し始める。テクニススコヌランストックホルムの工芞矎術孊校に通い、同じく芞術を孊んでいたアンナ·カッセルず出䌚う。
1882-87
 王立芞術アカデミヌに入孊。優秀な成瞟で卒業。
1886-1912
 20を超える展芧䌚で䌝統的画颚の絵画を展瀺。展芧䌚の倚くはスりェヌデン芞術協䌚の䞻催によるものであった。
1891
 アフ·クリント自身が初めお霊的存圚からメッセヌゞを受信。
1896
 「5人(De Fem)」ず名乗る。
 心霊䞻矩団䜓である゚ヌデルワむス協䌚の䌚合に定期的に参加。カッセルら友人4人ずずもに独立したサヌクルで掻動を開始。この䌚合は祈り、瞑想、新玄聖曞の読解に始たり、霊的な導き手ず亀信する亀霊䌚ぞず続く。「5人」は自らの経隓をノヌトに曞き蚘し、自動描画にも取り組む。
1900-01
 ストックホルムの獣医孊院で挿絵画家ずしお働く。カッセルずずもに、ペン·ノェンナホルムによる銬の手術に関する本(1901幎出版)の挿画を手がける。
1903
 カッセルずずもにドむツを旅行。おそらくこの旅で北むタリアにも蚪れ、ルネサンス矎術を研究した。
1904
 5月、ストックホルムで神智孊協䌚が正匏に発足。アフ·クリントも参加。
 「5人」の亀霊䌚で、いずれ神殿が築かれ、絵画で満たされるだろうずいうお告げを受ける。
1905
 霊的な導き手から、メッセヌゞを䌝える準備をするずいう玄束を受信。アフ·クリントがこの任務の本質に぀いお尋ねるず、圌女の仕事は絵画を通しお果たされるであろうず䌝えられる。
1906
 1月、霊的な導き手であるアマリ゚ルからの䟝頌を即座受け入れ、圌女の重芁な仕事の準備に取りかかる。
 11月7日、「神殿のための絵画」に着手。その埌の9幎で、自らの霊的実践から埗たテヌマの䜜品を193点制䜜する。
1907
 ルンドの博芧䌚「芞術ず産業」で、より䌝統的な具象的絵画を展瀺。「5人」の掻動継続が困難な状況に陥り、最終的に1908幎に解散。
1908
 母が倱明したため、スタゞオを手攟しお介助に圓たる。
 ストックホルムにお、神智孊協䌚ドむツ支郚総曞蚘ルドルフ·シュタむナヌず出䌚う。
 1908-12
 アマリ゚ルより䟝頌された制䜜から4幎間離れる。
1910
 この幎に発足したスりェヌデン女性芞術家協䌚の䞀員ずなり、副理事兌幹事を務める。
1912
「神殿のための絵画」の制䜜を再開。シュタむナヌは神智孊協䌚から離れ、翌幎、人智孊協䌚を蚭立。
1915
 193点の絵画で構成される連䜜「神殿のための絵画」が完成。
1917
 霊的な生に぀いおの自らの思想「魂の生掻に぀いおの研究」をアンナ·ナングベリむに口述筆蚘させる。ムン゜のフヌルハむムにスタゞオが竣工。アフ·クリントの人智孊関連の文献、ペハン·ノォル絵画がスタゞオ内に蚭眮された。
1918
 母、看護垫のトマシヌヌ·アンデションずムン゜に転居。アンデションは生涯の友人か぀パヌトナヌずなった。
1920
 母マティルダが死去。10月、アンデションず、初めおスむスのドルナッハぞ赎く。
 10月20日、人智孊協䌚の䌚員ずなる。
 人智孊関連の文献、ペハン·ノォルフガング·フォン・ゲヌテ·の色圩理論を研究。
1922
 絵画制䜜を再開するが、幟䜕孊的で明瞭な䜜颚から、たらしこみ技法の氎圩ぞずアプロヌチを倉え、1941幎たでに400点以䞊の䜜品を描く。
1924
 4月24日、自身の絵画の掻甚可胜性に぀いお助蚀を求める手玙をシュタむナヌに送付。同幎12月9日にアフ·クリントがストックホルムの人智孊協䌚で行った講挔のためのメモによれば、シュタむナヌは圌女に絵を砎棄すべきではなく、掻甚の道があるだろうず䌝えた。
1927
 《花、コケ類、地衣類》(1919-20幎)をドルナッハのゲヌテアヌムに寄莈。たた、二぀ある〈知恵の暹〉シリヌズのうち䞀぀をゲヌテアヌムに莈る。
1931
 デンマヌクずスりェヌデンの囜境沿いのオヌレスンド海峡に浮かぶノェン島に、自身の䜜品を収めるための神殿の蚈画を立おる。
䞭心に塔のある4階建おの円錐圢の神殿であったが、実珟するこずはなかった。
1937
 4月16日、ストックホルムの人智孊協䌚で講挔を行い、自身の絵画の掻甚可胜性を協䌚に尋ねる。自身の霊媒的な手法に正圓性があり、シュタむナヌの教えず矛盟しないず䞻匵。
1944
 10月9日のノヌトに人生最埌ずなる蚘述を残す。この文章は「あなたには神秘的な任務が埅ち受けおいる。自分が䜕を求められおいるのか、すぐに十分理解できるだろう」ずいう䞀文で締めくくられおいる。82歳の誕生日を数日埌に控えた10月21日、路面電車の事故が元で死去。所持金はわずか292クロヌネであった。1,300点ほどの絵画ず124冊のノヌトブックからなる芞術的遺産を甥の゚リクに残した。

「ヒルマ・アフ・クリント展」の幎衚の党文を匕甚
倪字は筆者による。

 以䞊は幎衚の党䜓ですが、実は䌚堎で入手した䜜品リストが、通垞に比べおやけに分厚いなず感じたのです。垰っおからよくみるず、単なるリストではなく、半分が詳现な䜜品解説だったこずが分かりたした。

図 䜜品リストの解説文 筆者撮圱

 䜜品解説は貞し出しの音声ガむダンスによるのが普通ですが、䜜品リストに䜵せお曞かれるのは倧倉めずらしいず思いたす。
 䞻催者は、ヒルマ・アフ・クリントの堎合、通垞の西掋矎術史の延長線では䜜品が難解なこずを芋越しお、あらかじめ甚意したのではないかず思いたす。

 そこで、以䞋幎衚だけでなく、䜜品リストの解説文、さらには䌁画展の特別サむトの解説も参考にしながら、第䞀段階の感想を、远加、修正しおいきたす。

远加神秘思想心霊䞻矩、神智孊ず亀霊䌚を基盀ずする絵画、その埌シュタむナヌの人智孊による絵画制䜜

 先に結論を蚀いたすず、私の第䞀段階の感想に甚いた鑑賞方法は間違っおいたず蚀わざるを埗たせん。

 「線スケッチ」を始める前、もう少し厳密に蚀えば、蟻惟雄氏の著曞「奇想の系譜」の圱響なのか、䞖の䞭で江戞絵画が話題になる前は、日本絵画の展芧䌚に行くこずはありたせんでした。蚀い換えれば、西掋絵画の展芧䌚しか行かなかったのですが、今から思うず、日本の高床成長期に合わせお、教科曞にでおくる著名な西掋絵画䜜品を目玉ずする倧型の展芧䌚が倧手新聞瀟の䞻催で盞次いでいたので、私は単にその流行に乗せられおいたのかもしれたせん。

 ずはいえ、以前も蚘事にしたのですが、もずもず私の䞖代が受けた教育は、西掋矎術䞀蟺倒であり、蚀い蚳になりたすが、自然の流れなのです。

 ですから、䞀般に抜象絵画は分かりにくいず蚀いたすが、教科曞や䞀般解説曞で習った19䞖玀以降の西欧絵画史の流れを远っおいくず、戊前の抜象絵画、カンディンスキヌやモンドリアン、さらには戊埌の抜象衚珟䞻矩、䟋えばゞャク゜ン・ポロックやマヌク・ロスコなどの䜜品も、頭での理解や蚀葉で衚珟できなくおも、身䜓的に心地よく感じお、奜きになっおいく人々が倚いず思うのです。

図 䞊段カンディンスキヌ《Transverse Line - 暪線》、
䞋段巊ドロヌネヌ《Le Premier Disque》、
䞋段右モンドリアン《赀・青・黄のコンポゞション》
出兞すべおwikipedia, public domain

 ヒルマ・アフ・クリントの䜜品でいえば、《の最倧物》では、予備知識なしに初期抜象絵画図に近いものを感じたした蚘事そのを参照ください。

図「ヒルマ・アフ・クリント展」東京囜立近代矎術通その
怍物画ペン画アヌル・ブリュット生蚈は  図を再掲茉。

 しかし蚘事そので述べた様に《神殿のための絵画シリヌズ》ではその印象は党く違いたした。蚳の分からない䞍気味さずいうのか、絵画ずいうよりは原初的な䜕か、適切な衚珟かどうかわからないのですが「アヌル・ブリュット」が䞎える同質のものを感じたのです。

 その理由は幎衚を読んで盎ちに分かりたした。これらの䜜品は、通垞私たちがむメヌゞする画家の制䜜方法ではなく、すべお神秘思想心霊䞻矩、神智孊に基づき、亀霊䌚で霊的存圚からメッセヌゞを受けお自動描画されたものだずいうのです。
 幎衚によれば、アフ・クリントはその埌、シュタむナヌが創蚭した人智孊に入䌚したすが、亡くなるたで䞀貫しお、人智孊の神秘思想郚分を守り、霊的存圚を介した䜜品を続けるこずになりたす。

 道理で、第四章 「神殿のための絵画」以降人智孊ぞの旅、第五章 䜓系の完成ぞ向けお 以䞊の章で展瀺された䜜品矀を私は受け付けられなかった理由がわかりたした。
 アフ・クリントは珟代で蚀えば、さしずめオカルトや新興宗教にどっぷりずはたったひずのようにも芋えたす。
 圌女のこれらの䜜品を読み解くには、蚘事そので私が掚枬したように、前知識なしに䜜品を芋るだけでは䞍十分で、圌女が遺した膚倧なノヌトの蚘述を読んで、思想や制䜜手順もし曞いおあるずすればを読み解いおからでなければならないでしょう。
 実際、幎衚の匕甚文の埌、図に瀺した䜜品の解説文では、圌女の思想に沿っお詳しく䜜品の内容が解説されおいたす。
 しかし、その解説文も分かりやすいものではありたせん。なぜなら、珟代の科孊的思考が、神秘䞻矩や人智孊の理解を阻んでいるからです。

 そしお西掋矎術史のメむンストリヌムの䞭で、以䞊のような秘儀ずもいうべきプロセスで制䜜したものをはたしお絵画ず呌んでよいのかずいう疑問が湧きたす。 すなわち展芧䌚の副題にある「抜象画の先駆者」ず呌んでよいのでしょうか

 この話題に぀いおは、埌半で私の考えを述べたいず思いたす。

ヒルマ・アフ・クリントの生い立ちず神秘思想の背景、職業画家ずしおの生掻基盀の謎

 さお、幎衚では、アフ・クリントが僅か17歳、極めお若い時期にいきなり神秘思想の文蚀が珟れたす。
 写真で芋る限り、裕犏な家のお嬢さんが、ただ若いのになぜだろうず疑問に思いたせんか おたけにその埌同じ王立芞術アカデミヌの仲間の友人たちで「5人(De Fem)」ずいう䌚を䜜り、「亀霊䌚」を催しお自動描画により䜜品たで䜜っおしたうなんお䞀䜓䜕があったのでしょうか。驚くこずにその䌚は幎もの間続くのです。

 私はアフ・クリントの神秘思想に染たるきっかけになる生い立ちを知りたいず思いたしたが、幎衚や展芧䌚の資料の䞭にそれを芋぀けるこずができたせんでした。

 ずころが、第䞉段階の感想の蚘事䜜成のために、欧米の資料を探しおいる䞭で、ポヌル・プリ―スリヌさんずいう、自ら「元矎術教垫、珟圚は情熱的な矎術教育者」ず名乗る方の次の動画を芋぀けたした。

 私は、第䞉段階の感想蚘事のために参考ずする資料は、ヒルマ・アフ・クリントの䜜品研究に携わった欧米の専門家孊術研究者、キュレヌタヌ、矎術史家たたは圌女の䌝蚘䜜家および映画監督によるこずを前提ずしおいたしたから、矎術の専門家ずはいえ、垂井の矎術教育者の方の資料は取り䞊げない぀もりでいたした。

 ずころが、この動画の内容を芋るず、非垞に䞹念に生涯を調べおいお、動画制䜜者の真摯な姿勢が窺えるこず、特に若い頃の生い立ちが詳しく解説され、しかも私が知りたかった絵画修業時代ず卒業埌の颚景画の䜜品が豊富に䟋瀺されおいるこずから、今回の展芧䌚の資料だけでは回答が埗られなかった私の疑問点が明らかになり、ずおも助かりたした。

 もし問題が䞀぀あるずすれば、動画制䜜者は孊問的な怜蚌なしに、「ヒルマ・アフ・クリントは抜象絵画の先駆者」であるず断定しおいるこずです。

 しかしながら、それを陀けば、アフ・クリントの入門動画ずしおは秀逞で、本展芧䌚にこれから行く人、あるいは行った人も是非ご芧になるずよいず思いたすなお、翻蚳字幕の蚀語は各囜に察応しおおり、日本語字幕は倧倉自然ですのでご心配無甚です。

 さお、本動画により、第䞀段階の感想で抱いた以䞋の疑問が明らかになりたした。

疑問なぜ思春期の若い幎代に神秘思想に染たったのか そしおなぜ、終生にわたっお神秘思想に身をささげるこずが出来たのか
 動画では次のような説明がされおいたした。

 「アフ・クリントがわずか18歳の時に、10歳幎䞋の効ヘルミナが亡くなったこずで急速に神秘思想に近づいた」

 幎衚では神秘思想に近づいたのは17歳で、幎霢にずれがありたすが、家族、それも効の死は、神秘思想に近づいた理由ずしお説埗がありたす。
 しかし、亡くなるたで神秘思想に察する姿勢を貫き通したずころをみるず、圌女自身に霊的感受性が備わっおいた可胜性がありたす。
 事実、動画の最埌に甥の発蚀ずしお、「ヒルマ・アフ・クリントは、もずもず予蚀の才胜を持っおいた」が玹介され、第二次䞖界倧戊のロンドン空襲を予蚀しおいたずいうのです図。

図 《地図グレヌトブリテン》 1933 
第五章䌚堎展瀺䜜品、筆者撮圱

 ã€€ç§ã¯ã€ã“の甥の発蚀は芋逃せないず思いたす。ずいうのは、アフ・クリントは幌少期から、自分の「霊媒䜓質」この蚀葉が適切かどうかわかりたせん。ここでは仮にそう呌びたす。あるいは巫女的䜓質を自芚しおいたのではないかず思うのです。そしお予蚀胜力に぀いおも甥は実際に芋聞きしおいたに違いありたせん。
 効の死は「霊媒䜓質」のさらなる自芚を生み出し、もしかするず亡くなった効ず亀信を詊みたかもしれたせん。

 なお、蚘事その.でアフ・クリントのスケッチに察しお同じ北欧画家の゚ドノァルド・ムンクずカヌル・ラヌ゜ンずの類䌌性を述べたしたが、ムンクず云えば母芪や姉の死の圱響が有名ですし、ラヌ゜ンはあの幞せいっぱいの家庭を描いたのずは裏腹に悲惚な子䟛時代を過ごしたした。それがどうしたず蚀われればそれたでですが、なんずなく䌌た生い立ちが気になりたした。

 さおアフ・クリントの生涯に戻りたす。
 私は、王立芞術アカデミヌ卒業埌の幎衚が、母芪の䞖話を陀いお、亡くなるたで神秘思想䞋の掻動ですべお埋め尜くされおいるこず、霊的存圚からのメッセヌゞ受信により制䜜された続々ず生み出される膚倧な数の䜜品、そしお同時に蚘述された倚くのノヌトを芋お、それは私たちが知っおいる近代画家の姿ずはたったく異なる姿のように思うのです。

 「神智孊」やシュタむナヌの「人智孊」が宗教かそうではないのか、珟時点で私は知りたせん。しかし、アフ・クリントが「神殿」「祭壇」ずいう蚀葉を䜿っおいるずころを芋るず、宗教色は明らかです。

 私は、アフ・クリントの姿は、たるで修道院で神に生涯を捧げおいる尌僧の生掻ず重なりたす。その制䜜態床は、芞術䜜品の制䜜ずいうよりも、倧倉生真面目に霊的存圚からのメッセヌゞを珟䞖に䌝える宗教的責務を果たし続けおいるように思えるのです。

疑問霊的存圚からのメッセヌゞを具䜓的にどのようにしおドロヌむングするのか 自動筆蚘、自動描写の方法は

 展芧䌚の資料では、霊的存圚のメッセヌゞを自動筆蚘、自動描画するずだけ曞いおありたすが、具䜓的にどのように描いたのかは曞かれおいたせん。
 䞊蚘動画によれば、亀霊䌚の䞭で、心理孊のサむコグラフィックの手法を䜿っおメッセヌゞを受け取ったず述べおいたす図。

図 「5人」 巊《スケッチブック、ブック71903幎12月15日から1904幎11月15日》1903–04幎、右《無題》1908幎
出兞展芧䌚公匏サむト https://art.nikkei.com/hilmaafklint/works/#img_chapter02_01

疑問霊的存圚からの受信結果は絵画ず蚀えるのか 絵画だずしおも、抜象絵画の先駆けず蚀えるのか

 さお、このような亀霊䌚の掻動埌も、ヒルマ・アフ・クリントは《神殿のための絵画》の䜜品矀、「人智孊」に基づく䜜品制䜜に亡くなるたで邁進するのですが、私ずしおはこれらの霊的な存圚からのメッセヌゞに基づいた䜜品は絵画ず蚀えるのか、䞻䜓がないたた自動䜜画した堎合どうなのか この絵を西掋矎術史の延長ずしお芋るべきなのかずいう疑問を感じたした。
 飛躍し過ぎるこずはは分かっお蚀うのですが、西掋絵画のみの範疇で考えるべきか、掋の東西を問わない「人間」ずしおの絵画、すなわち突き詰めるず絵画ずは䜕かずいう根本にたで遡るず思うのです。
 それは、私が第䞀段階の感想で、アヌル・ブリュットの絵を芋おいるようだず感じたこずずも繋がりたす。この問題は、次回の蚘事で改めお考えおみたいず思いたす。

疑問ヒルマ・アフ・クリントは優秀な成瞟で王立芞術アカデミヌを卒業し、圓時ただ数少ない女性の職業画家になったず解説されおいるが、いったいどのような絵を描いお生蚈を立おおいたのだろうか 今回展瀺された霊的存圚のメッセヌゞに基づく絵画を賌入する局がいるずは考えられない。

 さお、これたでずは䞀転しお倧倉珟実的な話になりたす。私は第䞀段階の感想ずしお、いくらスりェヌデンが他のペヌロッパ諞囜に比べお女性に察しお先進的だったずしおも、そしお画家ずしおもずおも優秀だったずしおも、それだけで職業画家ずしお果たしお自立しおやっおいけるものなのか 倧倉疑問に思ったのです。

 䟋えば私が䞭高時代に習った北欧諞囜の20䞖玀の人口は数癟䞇単䜍でした。実際ヒルマ・アフ・クリントが生きた19䞖玀の人口を調べるず、1850幎では350䞇人、銖郜ストックホルムの人口は玄10䞇人ず掚定されおいたす。
 絵画垂堎は郜垂郚のストックホルム䞭心ですから、いくら富裕局の比率が高かったずしおもおそらく垂堎芏暡は極めお小さかったず掚定できたす。

 しかし、前項で挙げたポヌル・プリ―スリヌ氏の動画によれば、ヒルマ・アフ・クリントは倧倉幞運なスタヌトを切ったようです。

 成瞟優秀だったため、芞術アカデミヌの「アトリ゚ビルディング」の䞭のスタゞオを授䞎されたずのこずです。そしお、颚景画や肖像画を描き成功し、これが経枈的自立ず安定の源になったず解説されおいたす。
 そしお、圓時のスカンディナビアン半島では、男女の差がほずんどなかったそうです。

 この蟺りの事情はそのたた受け入れるしかないのですが、それではどのような絵を圌女は描いおいたのでしょうか。なかなかその時代の絵を芋぀けるこずはできなかったのですが、幞いなこずにポヌル・プリ―スリヌ氏の動画になぜかたくさんの䟋瀺がありたした。その䞭から颚景画を制䜜幎代順に匕甚しお瀺したす図図。

図 ヒルマ・アフ・クリントの颚景画
䞊段巊から、《Summer Landscape》1888, 、《Katarina Church Stockholm》1889、
《Winter Landscape》1891
䞋段巊から、《Coastal Landscape》1892、《Landscape》c. 1893
出兞党おポヌル・プリ―スリヌ氏の動画
https://www.youtube.com/watch?v=6ab_QfeL4u4より抜き出し筆者が再線した。
図 ヒルマ・アフ・クリントの颚景画
䞊段巊から、《Country View》Watercolour, 1895 、《Blooming Fruit Trees》1898
䞋段巊から、《Children playing by Water》1902、《Stream in the Forest》1902、
《Late Summer》1903
出兞党おポヌル・プリ―スリヌ氏の動画https://www.youtube.com/watch?v=6ab_QfeL4u4より抜き出し筆者が再線した。

 このうち、図の䞊段巊の絵は確か今回の展芧䌚に展瀺されおいたした。   
 ご芧のようにどの絵も倧倉オヌ゜ドックスな颚景画です。技術的にも、構図的にも優れおいるず思いたす。おそらく圓時の矎術愛奜家であれば安心しお賌入したくなる絵ではないでしょうか。

 なお、蚘事その1では同時代の北欧の画家、ムンクおよびラヌ゜ンの颚景画では、地平線の䜍眮が高く蚭定されおいるこずを指摘したした。アフ・クリントの颚景画ず比范しおみたいずも曞きたした。
 図8図9の颚景画をみるず、それらの地平線はムンク、ラヌ゜ンほどは高く蚭定されおいたせんが、それでも印象掟以前の画家達䟋えばコンスタブル、タヌナヌ、ドヌビニヌ、ル゜ヌ、クヌルベ、コロヌ、ブヌダンなどの颚景画に比べお高く蚭定されおいたす。この地平線の䜍眮に぀いおこれ以䞊話を進めるのは煩雑になるので、別の機䌚に譲りたいず思いたす。

 図に瀺したの颚景画の最埌の制䜜幎は1903幎です。このあずも䌝統的な颚景画を描いた可胜性がありたすが、幎衚では1904幎に「5人」の亀霊䌚が発足し、霊的存圚者のメッセヌゞを受信した䜜品を描き続けるこずになるので、その可胜性は䜎いず思いたす。
 ですから、やはり亡くなるたでの長い間、どのように生蚈を立おおいたのか䟝然疑問が残りたす。

疑問なぜ、ヒルマ・アフ・クリントは、霊的存圚からのメッセヌゞを二次元平面で描写しなければならないのか なぜそれらを䞀郚の人間しか芋せずに発衚しなかったのか 死埌も20幎間封印するように蚀い残したのか 「人智孊」におけるヒルマ・アフ・クリントの圹割はあったのか、それずも自ら掻動を決めおいたのか シュタむナヌの「人智孊」前身の「神智孊」も含めは西欧思想史においおどのような䜍眮づけだったのか。

 これらの疑問は、疑問、疑問の内容に盎接関連したす。

 正盎、神秘思想に぀いおはこれたで、近づかないようにしおきたした。あくたで私が孊んだ日本の西掋史、西掋思想史のテキストや講矩ではほずんど觊れられおこなかったのではないかず思うのです。

 しかし、わが囜ではシュタむナヌ教育に぀いおは、倧倉有名ですので、シュタナヌの名前は良く知られおいたす。しかしこれたで新聞レベルの䞀般向けの蚘事では、シュタむナヌず「人智孊」や「神秘思想」、そしお教育ずの関係に觊れられた䟋はほずんどなかったのではないでしょうか

 欧米で圌女の䜜品が再発芋されたずきに、ここに述べた疑問以倖にも倚くの論点が提瀺されたはずです。欧米ではすでに倚くの専門家が意芋を戊わしおいるはずですから、それらを把握しお、次回の蚘事で蚘したいず思いたす。

この蚘事を曞いた時点での私の仮の意芋(仮説

 珟時点では、私は二぀の立堎を取りたいず思いたす。

 抜象絵画を、県に盎接芋えないものを仮説や掚論に基づき、自分の意思䞻䜓で造圢およびコンポゞションを決めお絵画を制䜜するこずず芏定するず、ヒルマ・アフ・クリントの䜜品は受動的に描かれたものであり抜象絵画ずは蚀えず、むろん抜象絵画の先駆けずは蚀えない。

意芋

 もし、人間の䞻䜓がなければ、極端に蚀えば象や猿が勝手に描いた線描も抜象絵画になるでしょうし、人間が描いた堎合でも、理論仮説、掚論、実斜が無ければ、䟋えば叀代絵画の抜象造圢や幌児・子䟛、あるいは、ドラッグによる幻芖やアヌル・ブリュット図10なども抜象絵画になるからです。

図 アヌル・ブリュットの絵画の䟋
巊Robert Linke, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons
右Robert Linke, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

 幎衚から芋る限り、ヘルマ・アフ・クリントはあたりにも受動的のように芋えたす。あくたで霊的存圚のメッセヌゞを受け取るばかりで、䞻䜓は霊的存圚なのです。

 しかし、そうはいっおも《の最倧物》では私はアフ・クリントの䞻䜓的な意思造圢、配色を感じたす。ですから、もう䞀぀の意芋も成り立぀ず思うのです。

 宗教的啓瀺、トランス状態で霊的存圚からのメッセヌゞを自動描画によっお受動的に埗られた造圢にむンスピレヌションを受け、それを基に自らの審矎的感性でドロヌむング、圩色を行った抜象造圢は抜象絵画ずみなす。この堎合は、ヒルマ・アフ・クリントの䜜品は抜象絵画でありその先駆けず蚀える。

意芋

 ãã‚Œã§ã¯æ¬¡å›žã€ãƒ˜ãƒ«ãƒžãƒ»ã‚¢ãƒ•・クリントの䜜品に察しお抜象絵画か吊かに関する欧米での議論を知ったならば、䞊の意芋がどう倉わるのか楜しみです。

蚘事そのに続く。

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