ゲイ読み赤江瀑206 「櫻のあとさき」
◯ 「櫻のあとさき」 《問題小説》 1992年2月号
またしても、黒枠の写真の始まりである。
若く美しい男の謎の死がメインであった頃に比べ、まあまあの年齢の死者の声を拾い上げる内容が多くなる。
死は美神の恩寵ではなく、容赦なく誰彼構わず降りかかる宿命と化す。作者自身がそれを実感するような年齢に差し掛かっているのだ。
今回悼まれるのは、語り手の私=野口の友人・泰一郎である。亡友の妻の舜子が、野口の元を訪ねてきている。泰一郎の遺影は語り手の家の庭で撮られたものを使ったのだ。
亡くなる10年前くらいのもので、とても良い写真だった。
康一郎は、五十五歳で亡くなった。もう来年で七周忌になる。それを潮に、今の住まいの近くに墓を新しく建てることになり、その相談で舜子は夫の里に帰っているのだ。
「いえ、移すと言いましてもね、こちらにはご両親も、兄弟方もいらっしゃるし……折角お参りして下さる野口さんと離れて、あちらへ越しますのもね、あの人には淋しいことでしょうから……分骨という形になると思いますけど……」
「そうでしたか」
「そりゃあ気持のいい墓地ですのよ。見晴らしのきく高台にありましてね。言うことなしの環境ですのに……」
と舜子は言ってから、つと口淀ませた。
「なにか……?」
「いえね、意外なところに、伏兵がおりましてね」
「ほう」
「息子ですの」
「ああ、淳介さんでしたっけね……」
「ええ、その淳介です。あの人が亡くなってから、ちょうど年齢的にも、反抗期っていうんですか……むつかしい時期を、母一人、子一人で育てましたから、そりゃわがままなところもありますんですけどね……。気に入らないらしいんです」
「その墓地が?」
「はい。どうしてもここに決めるんだったら、僕は入らないからって言うんですよ」
「ほう」
「それも、わけのわからない難癖をつけましてねえ。ちょっと聞いて下さいませよ。わたしの買いました区画のすぐ後ろにね、櫻の木が、二本ばかりありますの。それが満開の花をつけた時の綺麗さといったら、ないんですよ。ちょうどあなた、お墓の上に枝をいっぱいにひろげてましてねえ……」
私は、なにがなしに、相槌を打つことを忘れていた。理由もなく、言葉を呑んだのだった。
「その櫻を見た時に、わたしは、ここだと思ったんですから。『そうでしょう。あなたも知ってるじゃない』って、何遍あの子に言いましたか。お父さんが、どんなに櫻を好きだったか。あの花に囲まれて、暮らしてらしたか。あなたも知ってるでしょって、言いましたの。その櫻を、あの子、伐れって言いますのよ。花が済んだら、あとは毛虫の巣じゃあないか。頭の上に、ぽたぽた毛虫が落ちてくる。そんな所で、永遠の眠りなんか眠ってられるか。そう言いましてね、けんもほろろ。情も風情も解さない、ほんとに優しくないことを言うんですのよ。厄介な年頃でしてねえ。右と言えば、左ですから。あつかいにくくてねえ。手を焼きます」
舜子は、そんなことを話して、新墓が建ち上がったらご案内状を出しますから……と言って、土地の名物の手土産を置いて、間もなく帰って行った。
「櫻……」
と、私は、口に出して呟いてみた。
私は櫻にまつわる泰一郎の告白を思い出していた。
彼が大学生の頃だったろうか。眼を瞑ると訪れる眼裏の暗黒に、得体の知れない物が棲みつき、数知れず跋扈していると、彼が言ったのだ。彼はそのせいで重度の不眠症に陥り、医者にも精神科にも掛かってみたが、不眠は治らなかった。
やがて、三十半ばを過ぎた頃…
「櫻を、見た……」
と、或る日、突然、言って寄越したのだった。
櫻。それだ。それがいい。どんどん描け。ふくらませろ。一生懸命、ふやすんだ。瞼の裏を櫻だらけにしてみろと、私は小躍りしたものだった。
泰一郎が、舜子と家庭を持つ気になったのも、その頃だった。
眼を瞑っても、瞼の裏の魔はなりをひそめ、暗黒の視界には満開の櫻林が森森とひろがって、物音一つしないと、彼は私に語った。
泰一郎の書斎の中が、咲き誇るたわわな櫻の写真や、絵や、置き物や、壁紙などで、埋めつくされるようになったのは、この頃からのことである。
だが、不眠の癖は続いていた。ひと頃の狂気を宿すほどのものではなかったが、舜子が心を痛める程度には持続していたのである。
彼は、妻に、瞼の裏に棲む魑魅魍魎のことはおそらく一度も話しはしなかっただろうし、私もまた告げはしなかった。
「櫻は、どうだい?」
と、たまに会えば、私は聞く。
「ああ。咲いてる」
と、泰一郎は、答える。
ほかにはなにも言わなくなったが、会うたびに彼はやつれ、体もどこか細くなって、青ざめた感じの肌を見せるようになった。
五十五歳で死んだ時、彼は両眼を見ひらいていた。どんなにしても、その眼を閉じさせることはできなかった。
櫻の森に、いつからか、魔がまた息を吹き返していたのだと気づかないわけにはいかなかったが、私にはどうすることもできなかった。手をつかねて、眺めているほかはなかった。
ただ単に友は櫻を好きなだけだった訳ではない。魔を祓うために櫻が必要だったのだ。しかしやがて、心の中の櫻の森がついに魔の棲家となり、友は病んで命を奪われた…。
息子が櫻を嫌悪するのも、もしや、彼もまた、その魔を隠し持っているのでは?
という危惧を読者に抱かせて、作者はぽつーんと作品に終わりを告げるのである。
なぜこの作品のタイトルは「櫻」と表記されているのかも気になる。旧字体はそもそも中国では「桜桃(さくらんぼ)」の木を指す字であり、日本固有種の山桜とは一線を画す。
その「櫻」のつくりの上部「貝+貝」の部分は、たわわに実った果実の連なる様を表しているのだと言う。
首飾りのように実の生る様に、何かしら魔物が百鬼夜行で取り憑いているようなイメージを作者が思い描いて、旧字を採用しているのではないだろうか。
まあ数年後に「櫻瀧」という旧字のみのタイトルもあるので、こっちの方がしっくり来るかなー、程度のことかも知れないが…
『月迷宮』 1993.8. 徳間書店
