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國分功一郎『天皇への敗北』について

先日、國分功一郎さんの新刊『天皇への敗北』を読んだ。今日はこれを読み、考えたことをまとめたい。

本書の論旨を僕なりにまとめよう。第二次安倍政権下の安保法制政局のさい、当時の天皇(上皇)の介入を期待した「リベラル」層が観察された。上皇は戦後民主主義リベラル的な発言を当時から度々行っていて、より踏み込んだ介入を「期待」する人も多かったのだ。しかしこれは戦後民主主義者の天皇への「甘え」「敗北」で、自立した市民としての一貫した立場を自ら放棄する選択だったのではないか、というのがとりあえずの問題提起だ。

この本が喉元にナイフを突きつけているのはーー当然、「戦後」を生きたすべての国民なのだが特にターゲットになっているのはーー名指しこそされないが、おそらく國分さんとは政治的な立場の近い、SNSでこの15年積極的に発言してきた「リベラル」たちだろう。彼ら彼女らこそが、前天皇による安倍晋三批判の「詔」を最も期待していたのだから。

その上で僕が強く思ったのはこの本が「スルー」されるのではないかということだ。いや、たくさん読まれるだろう。しかし本当にヤバい部分はまたスルーされるように思う。『暇と退屈の倫理学』は2010年代でもっとも読まれた哲学書だろうし、『中動態の世界』の与えたインパクトも大きい。しかしこれらの本においても社会思想家としての國分の問題提起のコアの部分は、それが重要であるがゆえに常にスルーされがちだと思うのだ。だから僕は『庭の話』を「國分功一郎、その可能性の中心」というと大げさだが、そのつもりで書いた。要するにどちらの本も、僕は消費社会論や言語論、あるいはケア論ではなく情報社会論として読んだのだ。そうすることでそのスルーされた部分を間接的に活かそうと考えたのだ。(國分さんには、きっと迷惑だっただろうが。)

そして同じように、いや、それ以上に今回の國分さんの問題提起はスルーされるように思う。そして強く思うのは、戦後日本という時間を支配してきたのは、本当に大事なことは語られない、スルーされるという構造ではないかということだ。それを僕たちはずっとーーというか、ある時期からの思想家や文学者たちはーー「アメリカ」だと考えてきた。そうなのかもしれない。しかしこの本で國分さんはそうじゃなくて、あるいはもう一つの「それ」として、「天皇」がいると告げたのだ。本当に重要な問題は「触れない」。それが戦後日本を縛ってきた見えない鎖だとしたら、そういったものの象徴がまさに「天皇」なのだ。

僕の解釈では、國分さんがここで述べているのは加藤典洋が『敗戦後論』で述べた「ねじれ」の解消ーー「ねじれ」を克服した新しい国民主体の確立ーーに必要なのは、加藤が批判された「右派も立てた」(ように見えてしまう)歴史認識の再確認ではなく、昭和「天皇」の戦争責任の追及、そして天皇制の見直し(究極的には廃止)である、ということだ。天皇を廃してはじめて、日本人は「9条」を自分のものにできるーーというわけだ。

だが、この提案はクリティカルであるが故にスルーされるのではないかと僕は危惧する。國分さんがデリケートな問題をオブラートに包み、敬称ひとつまで気を遣いながら丁寧に述べたせいで余計にそうなる。そこを含めて、僕は考え込んでしまった。僕は國分さんの言うとおりだと思う。たしかに「天皇」にケリをつけない限り、戦後憲法の精神の延長に国民主体を再構築することは難しいだろう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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