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なぜ左翼思想は労働者からメンヘラのものになってしまったのか

筆者のことを長くフォローしてくれている読者諸兄なら知っているかもしれないが、自分はこれでもどちらかというと「左翼」的な性向を多分に持っている人間である。

若い頃はマルクスやエンゲルスをなんとか読解しようと頭を抱えながらページをめくっていたし、20代後半から労働と並行しつつはじめた自前の社会運動も「困難者に対する教育支援」と「障碍者支援」というこれまたコテコテの左派的問題意識からはじまった活動だ。

社会的不公平の是正というものに昔から関心があるし、貧困や差別によって人間の暮らしや可能性に格差が生まれてしまうことに強い忌避感がある。可能な限り機会の平等を実現すべきだと思っているし、才能や努力や運の差異によって生まれてしまう結果の平等に対してもどちらかと言えば完全な野放しよりはある程度の再配分を行うべきだと考えている。

こう書くと、まぎれもなく筆者は左翼である。

しかし同時に筆者は、おそらく日本の言論界において最も急進的な左翼批判者のひとりである。いわゆる「リベラル」などと呼ばれる日本の左派グループからは間違いなく筆者は憎まれているし、仲間であるなどと毛頭思われていないだろう。それどころか「ネトウヨ」という言葉を用いて批判ないし糾弾されたことも一度や二度ではない。おそらく筆者は彼・彼女たちから「保守」ないし「極右」と認識されているはずである。

一体、なぜこんなことになってしまったのだろう。

いや、これは何も筆者の身だけに起こっていることではない。読者の中にも「自分を『保守』とカテゴライズすることに違和感がある」という方は少なくないのではないか。

たとえば本マガジンを通じて筆者は「不可視化された男性困窮者」という文脈においての「弱者男性」の問題について論じてきた。そして多くの読者諸兄からの賛同や関心を集めてきた。しかしこの「不可視化された男性困窮者」という問題概念は、言うまでもなく社会的公正さに対する異議申し立てであり、明らかに伝統的には左派の領域に属する議論である。なぜ男性は自死やホームレスや過労死といった苦境に立たされやすいのか。そうした困難が片務的に特定の性に偏るのは不正義ではないのか。社会的弱者に対する連帯の意識や、社会的公正を尊重する視座がなければ「弱者男性」問題に対する関心は生まれてこない。

つまり、本来であれば「左翼」にカテゴライズされても良いはずの人々が、なぜか最も急進的な左翼批判者に回っているという構図があるのだ。そしておそらく左派の急激な退潮は、この「左翼の左翼離れ」とでも言うべき現象と深く結びついているように思うのである。

一体なぜこんなことが生じているのか、というのが本稿のテーマである。

この謎を解き明かすために、筆者としてはここ20年ほどの左派運動小史を概観したい。その上で2010年代から生じた左派の質的変化と、「左派思想のメンヘラ化」とでも言うべき現象について解説したい。

お付き合いいただければ幸いである。


2000年代における左派の勝利

まだ10代20代の若者からすると信じられないかもしれないが、左翼がジェンダー問題にほとんど無関心であった時代というのがかつては存在した。

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