シリーズ:江戸タイムスリップ養生帖 第60話 香り一服、長屋の養生
昼下がりの長屋は、なんとも気の抜けた空気だった。
どこかぬるい風が通り抜けていき、
なんだか自分の体も重く感じる。
私は土間に座りこんだまま、ぼんやりしていた。
——お腹、空かないなあ。
具合が悪いわけじゃない。ただ、なんとなく重たい。
「どうしたんだい、おせんちゃん」
顔を上げると、向かいの戸口からお勝さんが覗いている。
「いえ……食欲がなくて」
「食欲がない?」
お勝さんの眉がぴくりと動く。
「そんなもん、ある日とない日があるさ。ちょっと待ってな」
ほどなくして、お勝さんは青い束を持って戻ってきた。
「ほら、三つ葉だよ」
「三つ葉……」
私は皿の上を見て、少しだけ首をかしげた。
現代にいたころも、しょっちゅう見かけた。
お吸い物の上に、ちょこんと乗っているやつだ。
正直に言えば——
(……あれ、飾りじゃないの?)
食べても食べなくても、変わらないもの。
「なんだい、その顔は」
お勝さんが、にやりとする。
「“なくてもいい草”って顔してるね」
「あ、いえ……」
図星だった。
「こういう日はね、これくらいでいいんだ」
お勝さんは手際よく湯を沸かし、三つ葉をさっとくぐらせる。
ほんの一瞬で引き上げ、水にとる。
「火ぃ通しすぎると、ただの草になるからね」
刻んで、小皿に盛る。
醤油を、ちょいと垂らす。
それだけだった。
「はいよ」
「……これだけで、いいんですか?」
「いいんだよ」
あっさりした返事だった。
そのとき、戸口の外にぬっと影が差した。
「……いい匂いがするな」
のそりと顔を出したのは、熊さんだった。
「おや、熊さん」
「いやなに、通りがかりによ」
そう言いながら、もう中に入っている。
「ちょいと様子見に来ただけだ」
「様子見で上がり込むかい、普通」
「様子ってのは近くで見ねえと分からねえだろう」
熊さんはすでに、皿の前にしゃがみこんでいる。
「ほう……なんだこれ」
ひょいとつまみ上げる。
「……草?」
「三つ葉だよ」
「なんだ、こんなもんで済ませてるのか」
「済ませてるんじゃない、これでいいんだよ」
「ふうん……」
そう言いながら、ぱくっと口に入れる。
「……ん?」
一瞬、顔が止まる。
「どうだい」
「……消えた」
「は?」
「口に入れたと思ったら、もう消えた!」
お勝さんがため息をつく。
「ひと口だからだろうよ」
「違うんだよ」
熊さんは真顔だ。
「俺の腹がな、“これは数に入らねえ”って言ってる」
「どんな帳面つけてるんだい、その腹は!」
私は、そっと三つ葉を口に運ぶ。
しゃく、と軽い音。
そのあとに、ふっと香りが抜けた。
「あ……」
胸のあたりに、細い風が通る。
さっきまでの重たさが、少しだけほどける。
「どうだい」
「……なんだか、軽いです」
「そうだろうよ」
お勝さんがうなずく。
「三つ葉はな、腹を満たすもんじゃない」
少し間を置いて、
「通すもんだ」
熊さんが腕を組む。
「通す……?」
「詰まってるもんを、ちょいと動かしてやるのさ」
「ふうん……」
しばらく考え込んでから、ぱっと顔を上げる。
「じゃあよ」
「なんだい」
「俺がこれを山ほど食ったら、どうなる?」
「知らないよ」
「一気に通るかもしれねえぞ」
「ただの素通りだよ!」
熊さんはしばらく黙っていたが、やがてにやりと笑った。
「……まあいいや」
「なんだい」
「通す前に、まず詰めねえとな」
「やっぱりそっちかい」
私は、もうひと口食べた。
さっきよりも、少しだけ香りがはっきりする。
——飾りじゃなかったんだ。
気がつくと、白いご飯が少し食べたくなっていた。
「……あの」
「なんだい」
「少しだけ、ご飯……」
「そう来なくちゃね」
その横で、熊さんはちゃっかり茶碗を手にしている。
「お、じゃあ俺もついでに」
「ついでってなんだい!」
「いやなに、通りがかりだからよ」
「通りがかりで茶碗持つ人があるかい!」

湯気の立つ椀に、三つ葉をひとつ。
ふわりと香りが立つ。
その横で、熊さんは山盛りの飯をかきこんでいる。
「うまい! やっぱり飯は量だ!」
「さっき通すって言ってただろうに」
「通すのはあとだ!」
なんだかもう、それでいい気がした。
■ お勝さんの一言
「食えない日にゃ、食わせようとしないことさ。
腹に入れるもんばかりが、飯じゃないよ。
香りを通してやるだけでも、立派なひと手間だ」
(通すのは分かったがよ、俺の腹ぁ、まず詰めねえと話が始まらねえ)
■ 養生訓
体が重たいときは、無理に満たさない。
ひと口や、ひとつの香りで十分なこともある。
“足す”より“待つ”も、ひとつの整え方。
■ 縁側の端書き
ふわりと抜ける、あの香り。
炊きたての白いご飯に。 冷やっこに。
白湯やお吸い物に、 一葉そっと浮かべるだけでも。
ああ、少しだけ戻ってきたなと思う。
それだけで、今日はもう十分。
