シリーズ:江戸タイムスリップ養生帖 第54話 ちりり、とお日様の味
〜派手な花は、咲かなくても〜
五月の朝は、やさしい。
長屋の軒先に爽やかな光が差しこんで、
井戸端の水音がやけに涼しく聞こえる季節になった。
私はしゃがみこんで、足元をじっと見ていた。
板塀のきわに、小さな草がびっしりと繁っている。
白い花が、ちまちまと。
——ハコベだ。
現代にいたころ、こういう草は「雑草」の一言で片付けていた。
庭があれば抜くし、プランターに生えてきたら迷わず引っこ抜く。
それが当たり前だった。
「ほっとくと、どんどん育っちゃうんだよね」
つぶやきながら、私は根元に手をかけた。
* * *
「ちょっと待ちな!」
声がとんできたのは、隣の戸口からだった。
お染さんが、盥を抱えたまま眉をしかめてこちらを見ている。
「そいつを捨てるんじゃないよ」
「え、でも……雑草じゃないんですか」
お染さんは盥を置いて、そばにしゃがみこんだ。
白い小花に指先でそっと触れる。
「これ、ハコベだよ。宝物なんだよ、これ」
宝物。
私は手をとめた。
* * *
そこへ、通りかかった新吉さんが口をはさんだ。
二十そこそこ、こういう場面にはかならず顔を出す。
根は悪くないのだが、口が曲がっている。
「なんだい、朝っぱらから草なんぞ拝んで」
「拝んでない」
「ハコベの話をしてたんだよ」とお染さん。
「歯にも腹にも効くってね」
新吉はハコベをちらりと見て、鼻を鳴らした。
「ああ、それで脚気が治るんですか」
「治らないよ!」
お染さんの声が裏返った。
「あんたの江戸患いはあたしが小豆と麦飯で治したんだろうが」
「わかってら。冗談です」
新吉はちっとも悪びれずに言った。が、ちゃんと頭は下げた。
根は素直なのだ、たぶん。
先日、新吉さんは脚気で寝込んで
お染さんに食事の世話までしてもらっていた。
その恩をこういう形で返すのが、この男の流儀らしかった。

* * *
そのまま新吉さんと二人、お染さんの部屋に連れて行かれたかと
思うと、
数分後にハコベのおひたしが出てきた。
茹でて、絞って、かつお節をのせただけ。
それだけなのに、小鉢の中でまとまると、なんだか品よく見える。
一口、食べてみる。
——あ。
くせがない。苦くもない。ほんのり青くて、それだけで。
でもなんだか、日向のにおいがする。
やわらかいのに、歯ごたえがちゃんとある。
「お日様の味がしますね」
思わず口に出したら、お染さんが「そうだろ」と笑った。
「飾らない味だよ。でもちゃんと体に入ってくる」
新吉は三口で食べ終わって、しばらく黙っていた。
「……まあ食えますね。悪くない」
それだけ言って、箸を置いた。
——新吉さんにしては、だいぶ褒めた方なんじゃないだろうか。
* * *
次に出てきたのは、塩だった。
小皿に盛られた、うすい緑がかった塩。
「ハコベ塩だよ。ハコベを干して焼いて、塩と混ぜたやつ」
私はそれを指先で少しとって、歯ぐきにあてた。
ちりり、とした。
塩の刺激の下に、なにか草の気配がある。
鋭くはない。
でも確かに、歯ぐきがきゅっと引き締まるような。
「なんか、シャキッとします」
「そうだよ。歯ぐきが締まるんだ。
歯が弱い人にすすめてるんだよ」
新吉も指先でちょっとつけて、歯をこすった。
「……繊維が歯に挟まる」
「あんた、今日はずいぶん素直だね」
お染さんが目を細めた。
「腹でも痛いのかい」
「痛くねえやい!」
新吉が珍しく声を荒げた。おせんは笑いをこらえた。
* * *
午後、番小屋の前を通ると、善爺がうとうとしていた。
若いころは飛脚をしていた「韋駄天のご隠居」だが、
今は一日中、ここで日向ぼっこしている。
「善爺、ハコベって昔から使ってたんですか」
と声をかけたら、
目も開けずに答えた。
「あたりまえだ。足元にあるものは大抵使えるんだ。
人間が忘れてるだけで、草は忘れとらん」
「じゃあ善爺さん、飛脚やってた頃もハコベを?」
「食いながら走ったよ。摘みながら走ったよ」
目は開かない。
「……走りながら摘んだんですか」
「そうだ」
私は少し考えた。
「すごいですね」
「普通だ」
それきり、善爺はまたイビキをかき始めた。
韋駄天のご隠居というのは伊達じゃないらしい。
私には、野草を摘みながら疾走する姿がどうにも想像できなかったが。
* * *
長屋に戻って、またハコベの前にしゃがんだ。
白い花が、ちいさく揺れている。
派手な花じゃない。
誰かが植えたわけでもない。
ただ、そこにあって、
ちゃんと生きている。
——派手な花は咲かなくても。
足元に、宝物がある。
🔳新吉さんの一言
「確かに口の中はシャキっと締まるが、繊維が口に挟まるんだぜ」
🔳【養生メモ】
ハコベは春の七草のひとつ。
江戸時代には「ハコベ塩」として歯磨き粉がわりに使われていた。
歯ぐきを引き締める作用があるとされる。
おひたしにして食べると、ほのかな青みのある素直な味。
摘むなら農薬のかかっていない場所で、やわらかい若芽を。
🔳縁側の端書き
足元にあるものは、だいたい役に立つ。
ただ、それに気づくかどうかは、人次第。
派手な効き目も、分かりやすい変化もない。
けれど、体はちゃんと受け取っている。
足りないものを足すより、
もうあるものを思い出す。
整えるというのは、そういうことかもしれない。
今日は少しだけ、足元を見てみる。
そこに、案外いいものが生えている。
