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シリーズ:江戸タイムスリップ養生帖   第59話 苦味一服、長屋の春支度

長屋の路地裏、日当たりのいい空き地に、
黄色い花がぽつぽつと咲いていた。

私はしゃがみこんで、それをぼんやり眺めていた。

丸くて、やわらかそうで、どこか気の抜けた顔をしている。

——たんぽぽだ。

現代にいたころは、雑草のひとつでしかなかったそれが、
今日は妙に目に留まった。

「おせんちゃん、何をぼさっとしてるんだ」

振り向くと、源爺が使い古したザルを片手に立っている。

「その黄色いのが笑ってるうちに、
さっさと“冬の毒”を抜いちまわねえとな」

「毒……? たんぽぽで、ですか、源爺さん」

「そうよ。冬のあいだに腹ん中に溜まった澱(よどみ)を、
こいつの苦味で洗い流すのさ」

「へへっ」

横からひょいと顔を出したのは八兵衛さんだ。

「じゃあこの花、食えるのかい?
そう聞くと、蜜がありそうで、いかにも旨そうに見えてくるじゃねえか」

そう言って、黄色い花をつまみ上げる。

「バカ野郎」

源爺がぴしゃりと言った。

「花じゃねえ。葉と根っこだ」

「えぇ、そっちかい」

「江戸の春はな、これ食わなきゃ始まらねえんだよ」



ほどなくして、源爺はザルいっぱいにたんぽぽの葉を摘み集めた。

土間に戻ると、大鍋に湯を沸かす。

「よく洗え。土の味が残ると、そりゃあもう食えたもんじゃねえ」

言われるままに葉を洗い、ざぶりと湯にくぐらせる。

青臭い香りが、ふっと立ちのぼった。

「はいよ、引き上げな」

冷水にとって、軽く絞る。

それだけで、もうそれらしい一品になっていた。

「味はつけねえの?」

「ちょいと醤油を垂らしゃあ十分だ。余計なことすんな」

皿に盛られたそれを、三人で囲む。

「……いただきます」

ひと口。

——苦い。

思わず顔がしかめっ面になる。

「なんだこりゃ」

八兵衛さんも、あからさまに眉を寄せた。

「草だな、こりゃあ」

「草だよ」

源爺は平然と頷く。

「だがな、その苦さがいいんだ。
腹の中をきゅっと引き締めて、余計なもんを追い出す」

もうひと口。

さっきより、少しだけ慣れた。

苦いだけじゃない、どこか土の匂いと、青い風みたいな味がする。

「……なんだか、体にしみる感じがします」

「そうだろうよ」

源爺が満足そうに笑った。

「薬にするならな、根っこを刻んで煎じる。
乳の詰まりだの、腫れもんだの、そういう時に使うんだ」

「へえ……」

八兵衛さんが、ふうんと鼻を鳴らす。

「じゃあ、こいつは食いもんであり薬でもあるってわけか」

「そんな大層なもんじゃねえよ。ただの草だ」

そう言って、源爺はもう一口、ひょいとつまんだ。


ふと、私はさっき摘んだ茎を思い出した。

ぽきりと折ると、白い汁がにじむ。

「あの……これ」

私は指先にその白い液をつけてみせた。

「ちょっと、虫刺されに塗ってみてもいいですかね」

腕の赤いところに、そっと塗る。

「へえ」

八兵衛さんが覗き込む。

「そんな使い方もあるのかい」

「いや、なんとなく……効きそうな気がして」

「へへっ、当たるも八卦だな」

八兵衛さんが笑う。

しばらく待つ。

——特に何も起きない。

「……どうだい」

「さあ……少し、ましになったような、ならないような……」

「気のせいってやつだな」

「かもしれません」

三人で、なんとも言えない顔を見合わせて、ふっと笑った。


その日の夕方。

腹の奥が、少し軽い気がした。

はっきりとした変化じゃない。

でも、なんとなく。

——なんとなく、いい。

それくらいで、いいのかもしれない。


■ 源爺の一言

「苦ぇもんはな、体が忘れてる味だ。
 たまに思い出させてやんな」


■ 養生訓

春の苦味は、内にこもった滞りを動かす。
強い効き目を求めず、続けて整えること。
養生は「効かせる」より、「戻す」が肝要なり。

縁側の端書き

口に残る、あの少しの苦さ。
ああ、春だなと思う。
それだけで、今日はもう十分。



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