シリーズ:江戸タイムスリップ養生帖 第55話 出るもんは、出しときな
朝の井戸端は、いつもより少しだけ静かだった。
桶の水面に、ぽたり、としずくが落ちる音だけが響いている。
私はしゃがみこんで、指先でそっと口元に触れた。
——顎のあたりが、じんと痛む。
井戸の水に映った自分の顔を見ると、
赤く、ぷくりと腫れているのがわかった。
「……うわ、やだなあ」
ぐっと袖を引き上げる。
こんなの、人に見られたくない。
「何をこそこそやってんだい」
背後から、いつもの声が降ってきた。
振り向いた拍子に、つい隠しきれず——
「あら」
お染さんの目が、すっと細くなる。
「……やっぱり、目立ちます?」
「目立つ目立たない、じゃないよ」
あっさり言われて、ぐっと詰まる。
お染さんは、私の顎を軽く持ち上げた。
「ほら、こっち向きな」
「ちょ、ちょっと……!」
逃げ場もなく、まじまじと見られる。
「ああ、できもんだね」
「・・・さっきから痛くて」
「だろうね。どれ、こういう時にとっておきの薬があるよ」
お染さんはそう言うと、庭先の隅に歩いていった。
しゃがみこんで、草をひとつまみ。
「ほら、これだよ」
差し出された葉っぱに、思わず眉をひそめる。
「……それ、顔に当てるんですか?」
「塗るんじゃないよ、当てるのさ」
葉をくしゃっと揉むと、青臭い匂いが立ち上る。
「うっ……」
顔をしかめると、お染さんは楽しそうに笑った。
「いい顔するねえ。これだから十薬ってやつは、匂いで損してるよ」
「……じゅうやく?」
「そう。このドクダミのことだよ。
十の薬に値するってんで、そう呼ぶんだ」
さらりと言われて、思わず葉っぱを見直す。
「これが……十個も効くんですか?」
「さあね、数えたやつがいるのかは知らないけどね。
でも、何かと役に立つんだよ」
くたっとなった葉を、そのまま顎にぺたり。
ひんやりとして、じん、とする。
「……これ、ほんとに大丈夫なんですか」
「さあね」
またそれだ、と思った瞬間——
お染さんは、少しだけ声を落とした。
「人を選ぶ草だからね」
私は、思わず目を瞬かせる。
「人を……?」
「ヨモギより効き目が強いんだよ。
合わなきゃ、ひりついたり赤くなったりする。
そんときは、さっさと外しな。
無理に我慢するもんじゃないよ」
「……じゃあ、なんで」
「それでも使うかって?」
お染さんは、くすっと笑う。
「効くやつには、よく効くからさ」

顎に当たる葉が、じんわり冷たい。
さっきまでの不安が、少しだけほどける。
「でもね」
お染さんは、桶の水に手を浸しながら続けた。
「こういうのは、体が外に出そうとしてるもんなんだよ」
私は、思わず手を止める。
「外に……?」
「そうさ。いらないもんが溜まって、ここから出てきてる」
顎に触れると、まだ少し熱い。
「無理に引っ込めると、今度は中でくすぶるよ」
そのとき——
「おーい!おせんちゃん、朝からしかめっ面だなあ!」
熊さんの大声が響いた。
「どうしたその顔!誰かに殴られたのか!」
「違います!」
「いや、その腫れ方は立派な一撃だな」
「だから違うって言ってるじゃないですか!」
八兵衛さんが、のそのそと顔を出す。
「……ああ、できもんか。俺も出たことあるよ、ここ」
自分の顎を指さす。
「どうしたんですか、それ」
「気にしないでいたら、そのうち消えた」
「それ参考にならないですって!」
熊さんが腕を組んで、うなずく。
「つまりだな、おせんちゃん。
お前の中の悪いもんが、“出してくれー!”って顎から顔出してるんだ」
「やめてくださいその言い方!」
「ほっとくと顔じゅうから出てくるぞ〜」
「そんなホラーみたいに言わないでください!」
お染さんが、くすっと笑う。
「まあでも、間違っちゃいないよ」
私は、そっと顎に触れる。
さっきまで“隠したいもの”だったのに。
今は少しだけ、違って見える。
「……出てきてる、だけなんですね」
「そう」
お染さんがからりと笑う。
「出るもんは、出しときな」
朝の光が、じんわりと路地に広がる。
ひんやりとした葉の感触と一緒に、その言葉がゆっくり染みていった。
誰かの一言
「効くもんほど、癖があるってな」——お染さん
養生メモ
薬にも食べ物にも「合う・合わない」がある。
体の声を見ながら使うのが、いちばんの養生。
縁側の端書き
隠したくなるものほど、外に出ようとしているのかもしれない。
止めるより、見てやること。
それだけで、少し楽になる気がした。
