小倉陸軍造兵廠史跡巡り (福岡県北九州市)
小倉は明治以来の近代的な軍都である。明治4年に小倉に西海道鎮台が配置され、また明治8年に陸軍歩兵第14連隊が配置されたことを皮切りに軍隊が小倉に駐屯を始めた。そして日清戦争後の明治31年に軍備拡張のため第12師団が置かれたことは、小倉の近代の歴史において大きな意味を持つものであった。小倉の北方が軍事的に開発され始めたのもこの頃であり、それ以降、太平洋戦争の終戦に至るまで小倉は陸軍の街として続くことになる。
さて、この日、私が訪れる目的の一番大きな目的は小倉の軍需工場の跡を見て回るということであった。それは小倉工廠とか小倉陸軍造兵廠と呼ばれるところの軍需工場で、関東大震災後、東京砲兵工廠の機能の移転先としてその拠点となったところである。
北九州平和のまちミュージアムの資料やインターネットの情報をもとに、かつてこの地にあった小倉工廠がどの規模でどの範囲に存在していたのかを私は詳細に調べ、現在の地図に落とし込んでみた。ここにおおまかなところを記せば、小倉工廠の跡地はいまの小倉城からずっと南の地、紫川の左岸にあたる場所で、現在は大手町のマンション群や都市高速が貫く小倉の中心部にあたるようである。

それぞれの場所を歩いてみて明らかになったことは、現在、小倉工廠の遺跡はそのほとんどが姿を消しているということであった。最後に残されていた第二汽缶室という建築物もいまは新小倉病院の広い駐車場と成り代わっていたし、安川電機の敷地内にあった建築物群もいまや全くの更地と化していた。小倉工廠内の建築物についていま私が確認できるのは、第一施工場の防空監視哨くらいであろうか。大手町公園脇には後年になって立てられた「小倉陸軍造兵廠跡」という石碑があり、その隣には第一施工場の屋上にあったという防空監視哨がここに移されている。

一方で小倉工廠の外周に巡らされていたと思われるコンクリート製の外壁はその西側の場所、すなわち現在の田町や金田町にかけてよく見ることができた。あるところではマンションの入り口に分断され、またあるところでは都市高速に断ち切られていたが、それでも延々とその外壁が続いていたようだった。そしてその外壁下部には陸軍用地と書かれた軍用地標柱がそこかしこにあって、ここが陸軍であることを明瞭に示していた。


そして歩いてみてわかったことだが、この小倉工廠のあった広大な場所はいささか高台となっているということである。外壁の内部は一段と高くなっているし、この小倉工廠跡地をいま南北に貫いている清張通りのあるあたりも少しばかり高い場所に位置しているようである。地形を見ればこれは紫川と板櫃川に挟まれた段丘上のゆるやかな台地で、ここに小倉工廠は幾多の工場群を並べていたことになるようだ。
この高台の下に小倉工廠の地下工場があったことは驚きであった。その入口こそ判明しなかったが、その入口は大手町の紫川側の段丘面の壁面に設けられているのかもしれなかった。稀にこの地下工場も公開されるときがあるらしいから、そのチャンスを狙ってその中を見てみたいものである。
それにしても小倉工廠跡地はとにもかくにも広大なところであった。最盛期にはここに4万人もの人々が動員されて砲弾や戦車、銃剣などを製造していたという。しかしそれゆえにここが本土空襲の爆撃目標として狙われていたことは当然の成り行きであったのかもしれない。昭和19年6月16日には中国成都から飛び立ったB29がこの小倉工廠の地に爆撃を投下し多くの人がなくなっているし、昭和20年8月9日には小倉が原爆投下の目標地点ともなっていたのである。


戦後、小倉は軍都としての趣きもすっかりなくなりつつあり、ここがかつて大きな軍都であったことは私のような歴史巡りをする人でなければ知らないのかもしれない。確かに北方の地には陸上自衛隊の小倉駐屯地があるが、それはどの街にもあるような光景で、その規模にもかるかに増して大きな軍事施設がこの小倉の街にあったことは歴史を見てみなければ知る由もないようである。
思い起こせば、私の祖父は戦前のある時期にこの小倉工廠で働いていて、小倉工廠の話は何度も聞いたものである。下宿先での話、しばらく出勤しなかったためクビになったという話など・・・。ただいま悔やまれるのは、祖父がこの小倉工廠にいつ働き、数ある部署のうちどこで働いていたかということなどをいろいろと聞いておけばよかったということである。戦時中の人の証言を聞く機会も少なくなり、またこの日に私が探して歩いたような戦争遺跡もまた取り壊されつつある今、その歴史の記憶がなくなりつつあることを私は危惧してやまない。
この日、私は魚町の立体駐車場に車を止めて、小倉工廠のあった場所を歩いて回ったのであるが、この立体駐車場の隣にあった小倉ワシントンビルの存在がどうも私の心を掴んで離さなかった。それは当時、カネヤス百貨店と呼ばれていた鉄筋7階建の建築物で、その屋上にはいまもなお防空監視哨が当時の姿のままで残されていた。


防空監視哨のその小窓から見た小倉の街の変遷とは? 私も知らぬこの小倉の街を、その防空監視哨の小窓こそは片時も忘れることなくいまもなお見ることに徹しているではなかったか。それは静かなる目、無機質ながらも見続けた一つの目・・・。今や周りの建物の方が高くなったため周囲の視界は遮られているところもあるが、当時としては高く、小倉工廠ほか小倉の街並みやその空を見続けていたに違いなかった。あるときは春の長閑さとともにこの街を見て、またあるときは夏の烈日のもとに危機の空を睥睨した。そしてまたある秋は終戦後の悲しき空を、またある冬は限りなく続く空しき灰色の空を眺めていた。・・・ 人の集まり散じるこの都市、その離合集散の人影はもはや時代が移ろえばもはやそのすべてを追うことはできない。私はどうもその一時代の小倉の街に一つの虚無を見るような気がしてならかった。そして防空監視哨のその目がまた見たものも、その時代が映し産み出してきた膨大な虚無ではなかったか。

おりしも私の胸を去来したのは信時潔という戦前の大作曲家の「あやつり人形」という楽曲であった。ヴァイオリンとピアノによって奏でられるいささか悲しげな旋律はどこか虚ろで果敢ない。その音楽が歌うのは確かにあやつり人形そのものであったろうが、私にはどうしてもこの街にかつて集まり散じた人々の多くの人影を思わずにはいられなかった。今はなき人影、何かに導かれ、何かに捧げたその一時代の無数の人影を・・・。

