海と、子どもの頃の私
夏休みのレジャーといえば、海や山が定番ですよね。
私は小学生の頃、毎年のように家族で海へ行っていました。
そこは海辺のホテルで、準備運動のようにホテルのプールで泳いだ後に、そのまま海へ繰り出して遊ぶのです。
砂浜でカニを追いかけたり、綺麗な貝殻を拾ったり、海に入ってさんざん泳いで遊んだ後……
海から引き上げるときに、私はいつも海へ向かって手を合わせる、ということをしていました。
「無事に帰してくれて、ありがとう」と。
そうするように誰かに言われたわけでも、そういう話を本で読んだわけでもありません。
神話などに触れて、”海の神様”という概念を知るより前のことです。
今思えば、祖父母の言いつけで、毎日仏壇と神棚に手を合わせるような家庭で育ったことも関係しているのかも知れません。
なにかに手を合わせるということが、私にとっては日常動作で、特別な行為ではなかった。
目に見えないものに祈ったり、感謝したりすることが当たり前になっていた。
でも、それだけじゃない。
小学校四年の頃から、私は学校の天文科学クラブに入っていました。
その活動で、近所の裏山へ自然観察に行ったときのこと。
雑木林の奥に、深緑に濁った大きな池がありました。
その場所を通り過ぎざま、私はなんとなく池に手を合わせていました。
一緒にいた友達に
「氷鯰ちゃん、なんしよん?」
と、不思議そうに訊かれ「スピリチュアルな人間だと思われたら、からかわれるかも知れない」と思った私は、とっさに
「なんでもない」
と、誤魔化したのでしたが……
大人になった今思うのは、あれは”祈りの習慣”や”自然に対する感謝”ではなかったのではないか、ということ。
子どもの頃の私にとって、海や山、大きな池は今よりずっと大きなものでした。
そこは遊びに行く楽しい場所ではあったけれど、自分の都合ではどうにもならない圧倒的なものだった。
子どもながらに、そんな畏怖のようなものを感じて、手を合わせていたんじゃないかと思うのです。(手を合わせたところで、無事な保証はないのですが……)
そんな小学生時代に、海で怖い思いをしたことがあります。
そのときの出来事を書き起こしたものが、『かえしてくれて、ありがとう』です。
この体験、おそらくは離岸流だったのでは?と思うのですが、子ども心に「やっぱり海は大きくて”こわいもの”だ」と刻み付けられる出来事でした。
海は、あるいは海にある”なにか”は、私を引き摺り込もうとしたわけでも、助けようとしたわけでもない。
それは人間の都合や思惑とは何も関係なく、ただ存在しているだけ。
対話も交渉もできない。
それを科学的に切り取り、分析することはできます。
でも、子どもの頃の私は、それをもっと大きくて”違う貌をした何か”として感じ取っていたのです。
思えば、私は昔から、ラブクラフトの描くような、人間の理解を超えた存在の話が好きでした。
人間を関知せず、あるいは関知していても好悪の感情もなく、ただ圧倒的なものとして存在するものたち。
人間の価値観の範疇外にいて、その因果律からもかけ離れたもの。
その人間が悪いことをしたから、とか。
その人間が禁忌を侵したから、とか。
その人間が善良だから味方になる、とか。
そんな人間側の物語を一切受け付けない、そんな存在。
それは、もしかしたら子どもの頃に海へ向かって手を合わせていた、あの畏れの感覚とどこかで繋がっているのかも知れません。
目に見えないそんなものの存在を、私は信じているわけではありません。
でも、今でも息子と海へ行って、帰り支度をするときには、手は合わせないながらも胸の中で唱えてしまうのです。
「無事に帰してくれて、ありがとう」と。
【追記】今週もコングラボードをいただくことができました!
いつも、貴重な時間を割いて読みに来てくださる皆さま、スキやコメント、フォローを送ってくださる皆さま、本当にありがとうございます!!
小学校が夏休みに入り、なかなか時間が取れずに創作の書き溜めも儘ならない毎日ですが、今しかできないことを大切に、ぼちぼちやっていこうと思います。
これからも、どうぞご贔屓によろしくお願いいたします☆


