怒られて覚えた、という言葉の危う
職場で、部下の社内文章の誤字脱字をめぐって、課長が激しく怒る場面がありました。内容以上に空気を支配していたのは、その怒りの強さでした。
そして最後にこう言いました。
「ほかの人たちもこうして怒られながら仕事を覚えたんだよ」
その一言が、妙に引っかかりました。
この言葉は説明でも指導でもありません。
一見すると経験則の共有のように聞こえます。しかし実際には、現在の行為への問いを封じるための言葉です。
本来問われるべきなのは、「その怒り方は適切か」という現在の問題です。しかしこの言葉は、それを「過去はそうだった」という話にすり替えます。
ここで、話の軸がずれているように感じました。
「みんなそうだった」「これが普通だ」という言葉は、個人の行為を集団の慣習に乗せることで、疑問を差し挟みにくくします。
しかし、「普通だった」ことと「妥当だった」ことは別の問題です。
「自分もそうされた」は、なぜ正当化になるのか
この言葉が含んでいる前提は単純です。
「自分もそうされてきた。だから同じことをしてもいい」
これは経験の共有ではありません。再現です。
ここで起きているのは、過去の扱いの意味づけのやり直しです。人は、不快だった経験をそのままでは受け止めきれないとき、「必要なプロセスだった」「あれがあったから今がある」と解釈し直します。
そうしなければ、自分が受けた経験の位置づけが崩れてしまうからです。
しかし、その解釈が固まった瞬間、同じことを他人に向ける理由が生まれます。
「自分が耐えたのだから、あなたも耐えるべきだ」
この論理は、ここから自然に出てきます。
本人は「育てている」「厳しく教えている」と思っていることすらあります。しかし実際に起きているのは、自分が受けた扱いを見直さないまま、次の人間へ流しているだけです。
そこに選択はありません。ただの継承です。
「怒られて覚えた」は正確ではありません
「怒られて覚えた」という言葉はよく使われます。しかし正確ではありません。
怒られたから覚えたのではありません。怒られる環境で、覚えざるを得なかっただけです。
この違いは決定的です。前者は怒りを学びの原因として扱っていますが、後者はそれを圧力として見ています。
その場で身につくのは、「理解」よりも先に「間違えないようにすること」です。
「怒られないためにやる」と「理解してやる」は、まったく別の動きです。
そこで身についたのはスキルではなく、「従わなければならない」という感覚だった可能性もあります。
思考停止の正体
この言葉には、もう一つの機能があります。会話を終わらせる機能です。
「みんなそうだった」と言われた瞬間、個別の違和感や問題提起は封じられます。それは個人の問題ではなく、集団の常識に変換されるからです。
そして集団の常識に異議を唱えることは、「空気を読めない人間」というリスクを伴います。
だから反論は起きません。しかし違和感だけが残ります。
ここで残るのは、単なる感情ではありません。
考えるべき点が、静かにすり替えられているという感覚です。
問題はここにあります。
それは指導の問題ではありません。思考の停止の問題です。
過去にあったことを、そのまま現在の基準にしている限り、改善は起きません。
「自分もそうだった」という言葉は、経験の共有ではなく、判断を止める合図に近いものです。
本当に問うべきなのは、それが普通だったかどうかではありません。それが妥当かどうかです。
見直されない限り、それは繰り返されます。
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