熱狂と他者への期待の裏側にある重荷に気付く|セス・フリード「大いなる不満」読書感想
狂ったように熱くなるのだけが”熱狂”ではなく、熱に狂うのもまた”熱狂”なのだろう。セス・フリードによる「大いなる不満」に収められた短編小説「ロウカ発見」は、熱に狂った人々による”熱狂”、そして大いなる不満が描かれた物語である。
ヨーロッパの山中で発見された7000年前のミイラの研究に熱狂する研究者たちの様子が、新たに発見されたミイラや各々を取り巻く人間関係の変化などとともに描かれている。
本作は、ともすればミイラの謎に意識が向きそうになるけれど、その実印象に残るのは人間の”熱狂”がもたらす大いなる不満、そして劇的な変化だろう。何せ”熱狂”の熱冷度合いによって研究者たちの人間関係さえ劇的に変わる様が描かれるのだ。
それはあたかも”熱狂”によって理性や思考力、判断力を鈍らせ、”熱狂”の沈静化でそうした力を取り戻して場都合の悪くなる現実の我々を克明に映し出しているかのようである。
折しも先の衆議院議員選挙は、このような”熱狂”の表れにも見て取れる。アルゴリズムによって人心を掻き立てるSNSやメディアによって生まれた仮想的な大衆感情の昂ぶり、それによって漂った雰囲気が人々を一方向に向かわせる様は、まさに”熱狂”めいている。
いつか冷めるときが恐ろしくなるほどに傾倒した結果は、多くの人々の胸中に薄っすらとした不安や懸念、危惧を生んだのではなかろうか。そもそも人間は理性を持ちながら感情によって意思決定をする生き物であり、冷静で居続けるのが難しい。
ただの一対一の会話の時間でさえ、常に思考を働かせながら冷静に会話を続けられる人間は極僅かであり、無意識の内に熱っぽくなり、上手く相手の話を聴けなくなったり、ついつい要領の得ない話をしてしまったりする。後からやっちまったと恥じ入るまでがセットだ(主に筆者の話だが、そういう人は多いのでなかろうか)。
「ロウカ発見」は、ロウカを巡って熱に狂った研究者たちの姿を通して人間らしい失敗を発見させてくれる物語であるように思う。自戒する意味でも一読の価値は高いだけにぜひ読んで欲しい。
ちなみに、岩手県陸前高田市の泊まれる古本屋山猫堂では、2月15日の夜に「ロウカ発見」をテーマにした「Bungakuサロン」を開催する。「ロウカ発見」に興味が湧いたらぜひ参加して欲しい(依頼を請けたわけではないためPRではないです)。
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ハーレムでの生活から他者への期待という重荷に気付く|セス・フリード「大いなる不満」読書感想
セス・フリードによる「大いなる不満」には「大いなる不満」という短編小説が収められているけれども、そもそも編纂されている短編小説11作品の全てに大いなる不満が込められている。それは研究者たちにとっての不満だったり、市民の不満だったり、動物たちの不満だったりと様々である。

そんな「大いなる不満」に編纂された物語の中で、最も印象的だったのは「ハーレムでの生活」である。タイトル通り、ハーレムでの生活が描かれている。といってもご都合主義のライトノベルやラブコメのように、主人公が女性に囲まれて生活するような物語ではない。
とある王国で王に仕えていた、一人の女性を知らない冴えない中年官吏が、突如として王のハーレムの一員になり、ハーレムの中でハーレムの構成員として生活をすることになる物語である。なお、一言で表せば『愛を知らない非モテオジの虚無』だろうか。異論は多そうだ。
セス・フリードによる「大いなる不満」の中で、「ハーレムでの生活」が印象的だったのは、ハーレムから漂う卑猥さゆえではない。本作については、全体を通した一つの感想と一つの気付きがあったためである。このnoteでは、後者について記録したい。気付きをもたらしたのは、以下の文章だ。
心優しく一緒に暮らすことで世界はより心地良いものになるという希望を、私は捨てられなかった。妻。姉。妹。母。娘。頭のなかで、私はこうした言葉を刑の宣告ではなく触れ合いとして考えていた。夫。兄。弟。父。息子。それでも、私も彼女の世界観をまったく退けられず、切って捨てることはできなかった。
王のハーレムの一員にさせられた中年官吏、同情心からハーレム内の一人の女性に対して苦痛ではないか問い、否定された後の文章である。女性は、町で数多くの男たちから妻・姉・妹・母・娘といった何らかの役割を期待されるのは王の奴隷以下だと語っており、その言葉に対する中年官吏の動揺と葛藤が描かれている。
愛の告白の裏にある重荷
この女性が語るように、我々は生きている限りにおいて、あるいは死して尚、何らかの役割を誰かに期待され、そしてその役割を果たそうと努力しながら生活している。それは無意識に行われていることもあれば、意識的に行われていることもある。
一方で、その”期待”について、多くの人々は鈍感あるいは、全く意識さえしていない。たとえば『好きです。私と付き合ってください』といった愛の告白について、我々はそれを愛の告白であり、付き合うかどうかの判断を仰ぐ儀式的な言葉として認識する。
だが、その言葉が意味しているのは、恋人という役割を担って欲しいという依頼であり要求である。愛の告白と考えればどこか甘酸っぱく、ロマンティックな色彩が見て取れるけれども、それが意味するところである役割の要求・依頼と考えれば、重みが生じる。
本作「ハーレムの中で」において、この重みは”重荷”、”鞭で打たれるようなもの”と表現されている。実際問題として、誰かのために役割を担うのは重荷であり、どこか一人の人間の尊厳が傷つけられるような暴力的な色合いを帯びてしまう。
そうした負の側面を甘受できるからこそ恋や愛は素晴らしく、素的な感情であり、生物の神秘だとも言えるかもしれないけれど、『役割を要求する行為である』事実が変わらない以上、軽視できない点であろう。さりとて、そもそもそのような事実に多くの人々は気付けていない。
筆者はまさにそうである。ある種、先ほど引用した中年官吏の動揺、葛藤は、その事実に気付けていなかった読者の代弁でもある。もっとも中年官吏は本作の終わりに向かってハーレムの一員とは異なる役割を担うことになる。そして、その役割ゆえに彼は愛のない虚無の泥沼に嵌まりこむ。
それはある種、役割を与えられるのは決して愛を得られるのを意味しないと示しているようだ。この話を踏まえて改めて考えると、家庭で夫婦が互いを『お父さん(パパ)』『お母さん(ママ)』と呼称するのは、役割の確認行為を無意識に行っているのかもしれないなどといった想像が働く。その行為にもまた愛は感じられず、恐らく互いに得られてもいない。
その際に『あんたのお母さんではない』などと叱責が飛んだとしても、決して間違いではないだろう。何せ役割を全うするのは仕事と大差ない。間違っていたら咎められるのは摂理だ。そもそも夫婦間における互いの役割はパートナーであって一方の親ではない。
このように、人間関係を役割の観点で考えると、合点が行くこともあれば、何らかの気付きを得られることもある。そんな気付きを与えてくれた点で、『ハーレムでの生活』はとても印象的だったわけである。
ところで、この話を前述の泊まれる古本屋山猫堂でした際に、『海外には恋人を一人に固定しない関係性の育み方があるらしい』めいた話を聴いた。少し調べたところ、ポリアモリー(複数恋愛)といった付き合い方があるようだ。似て非なるものでオープンリレーションシップというものもある。
また、告白して恋人関係になるのは日本特有の付き合い方といった話もある。国や人による価値観の違いが感じられる話だ。どれが良くてどれが悪いといった話ではないが、日本は生真面目な国民性ゆえなのか何なのか、役割というものに対して厳格な面があるのかもしれないと思える話でもある。
いずれにせよ、他者に何かを期待するというのは、役割を要求する意味合いも持つ。その点については忘れないようにしたいと感じる読書体験だった。
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