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あなたの日常は物語である|梶井基次郎「檸檬」読書感想・読書記録

 冬の気配を仄かに感じる肌寒い日だった。筆者は陸前高田市の山猫堂の玄関をくぐるや否や店員を認めて、
「干し柿を作れると聞いたんですけど」
 と云いながら辺りを見回す。眼前に広がっているのは、普段と変わらぬ山猫堂の様子であり、干し柿を作っているようには見えない。在るのは本に服、あまり見かけなくなった古物達の姿だ。
 辺りを見渡しながら、筆者はどこで干し柿作りをしているか確認していなかったのに気付いて、自身の要領の悪さに溜息を吐く。暖房器具のお陰で室内が暖まっていたのだろう。吐いた息は白くならなかった。筆者が、「もしかすると台所でやるのだろうか」などと考え始めた頃、
「ちょっと待ってね」
 そんな店主の声を皮切りに、縁側近くの位置に置かれた洒落たテーブルの上に新聞紙が敷かれ、すぐ脇に籠が置かれた。籠の中を覗けば、所狭しと詰め込まれた燃えるように発色した橙色の渋柿たちの姿が見える。
「剥き難いから、少しずつ剥いていった方が好い」
 筆者は、店主の手の中で小気味良く剝かれていく皮を見ながら、「そういえば、柿を剥いたことはなかったな」などと思いつつ、そこはかとない不安を覚えていたが、「とはいえ、果物や野菜の皮を剥くのとそう違いはないだろう」と思い直し、店主によるレクチャーの終了とともに柿を剥き始めた。
 一個、二個、三個と剥いていく内に、筆者は、何んとなしにどう剥き始め、剥いていけば、あまり労せずに剥けるかが掴めてきた。時折談笑を挟みつつ、独り手に持ったナイフを動かし、柿を剥いていく。
 剥きながら、筆者は店主が言っていた「柿剥きも案外いいものだよ」の一言を思い出し、「なるほど確かに案外好いものだ」と朧気に感じられる言葉で上手く言い表せない好さを感じていた。思えば、自らの手を使って柿剥きのような単調な作業を繰り返すようなことを暫くやって来なかった。昔は漁業に伴う作業をよくやったものだが、それも気付けば随分と昔のことだ。柿剝きは、そうした懐かしさを心の内から呼び起こさせる。
 一刻ほど経った頃には、籠に入った柿はなくなっていた。途中、店主と彼の息子が採ってきた柿が2個ほどあったが、それも既に剥き終えており、どうやらこの日筆者が柿を剥く作業は終わりを迎えたようだった。軽く腕を天井へと伸ばし、作業の完了に浸る。そうして筆者は店員へと向かい、
「ジンジャーエールを一つ買えますか」
 と伝えた。

干し柿作り(柿剥き)の作業途中

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梶井基次郎「檸檬」が教えてくれる日常の物語性|読書感想文

梶井基次郎の「檸檬」は、日常の中に溶け込んだ物語を繊細かつ美麗な表現で描き出し、全く異なる日常として創り出した作品のように感じられる。だからこそ、我々が日々暮らしを営む中で行っている一切、我々を取り巻く人々の言動も環境も時間も何もかもが全て日常でありつつも非日常であると謂われているような心持ちになりもする。

梶井基次郎「檸檬」in山猫堂

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梶井基次郎「檸檬」で知る日常の価値

大人になればなるほど、日々の生活は繰り返しの連続になる。結婚し、子を生して、新たな人生を迎え入れない限り、独りの人間の生活は同じことの繰り返しになりがちで、だからこそ時の流れはその速度を上げていく。

年を重ねれば重ねるほどに時の流れが速くなるのは、それだけ単調な日々を繰り返すようになっており、刺激や新味の薄い日々になっているからだ、などといった話もあるが、それは一定の事実でなかろうか。

さりとてそれは決して悪いことではない。それだけ日々が安定し、安心できる状態になっているのは、寧ろ望ましいとも言える。一方で、そうした人生を退屈だと毛嫌いする向きもある。刺激が足りないし、面白味が足りない。

だから飽きが来るというわけだ。こうした一人の人間の心情は察しないでもない。柿剥きのように単調な作業を繰り返すのを苦行に感じる人々は少なくなかろうし、ましてそれが日々の生活ーー人生ともなると尚更だろう。

ある種、『田舎には何もない』などと語り、刺激の多い都市に焦がれる人々も同様かもしれない。人間、慣れると飽き、飽きると退屈し、退屈すると逃避あるいは脱出、変化したくなるものだ。焦りながら。

また、同じことの繰り返しでは、人は成長しない。新しいことに挑戦し、適度なストレスにさらされるとともに、未知を既知へと変えながらその身に取り込んでいかなければ、人は成長の芽を得られない。

成長が止まれば、訪れるのは後退である。弱り、衰え、そして朽ち果てる。だから繰り返しの日々に対して危機感を覚えるのは、生物としては真っ当であり、生を全うする上で、なくてはならない抵抗だ。

ときには「檸檬」のような刺激が必要だ。干し柿のとろけるような甘さに甘んじていてはいけない。だが、ここで一つ見落としていけないことがある。『本当にその日常は、ただ繰り返しているだけなのか』という点だ。

梶井基次郎の「檸檬」に限らず、本文庫に収録された以下の物語の多くが、どこかにきっとあっただろう日常を精細な描写で書き出した物語である。そこにあるのは、極々ありふれた人々の営みだ。

  • 檸檬

  • 城のある町にて

  • 泥濘

  • 路上

  • 橡の花

  • 過去

  • 雪後

  • ある心の風景

  • Kの昇天

  • 冬の日

  • 桜の木の下には

  • 器楽的幻想

  • 蒼穹

  • 筧の話

  • 冬の蠅

  • ある崖上の心情

  • 愛撫

  • 闇の絵巻

  • 交尾

  • のんきな患者

そんなありふれた日常が、精細に描き出され、精彩に語られた物語は、多くの読者を没頭させ、虜にし、多くの月日が流れた現代においても尚、読み継がれ続けている。

取りも直さずその事実は、我々が繰り返しを生きる中で厭き厭きし嫌々過ごす日々もまた、誰かの心を打つ物語足り得るのでないか、そんな想像を掻き立てる。

”私”が心奪われ執心した”檸檬”のように、何か視点が加わるだけで輝き出す。そんな日常を我々の誰もが生きているのでなかろうか。『田舎は何もないから退屈だ』その一言が、何かを見つけようとせずに見つけられずにいるから退屈を感じているだけ、であるように。

そんな田舎が、他者から見れば魅惑的な宝石のように輝いて扱われるように、繰り返しの日常を打ち砕く檸檬爆弾のような何かを見出せれば、慣れ飽き退屈した日常に光明を感じられるかもしれない。

梶井基次郎の「檸檬」は、そんな日常を照らし、日常に対する固定観念を木っ端微塵に爆破してくれるような、美しくも頽廃的な物語であった。檸檬のように目の醒める刺激が欲しいときに読みたくなる一冊だ。

山猫堂にて

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