なぜ日本人は、「魔除け」と「薬効」を同じ草に託したのか?
湯船に浮かんだ菖蒲の葉から、つんとした青い香りが立ちのぼる。
子どもの頃、五月になると家で菖蒲湯に入ったことを、今でも時々思い出します。
剣のようにまっすぐ伸びた葉を折ると、切り口からさらに強い香りがあふれ出す。その香りは少し刺激的で、鼻の奥がつんとするのに、どこか気持ちがすっとする。不思議な感覚でした。
あの頃は、ただ季節の行事だと思っていました。
でも、大人になってから、その風習の意味を知り、ずっと気になっていることがあります。
端午の節句に菖蒲湯へ入る風習は、奈良時代に中国から伝わったといわれています。
当時の人々は、菖蒲やよもぎなど香りの強い植物を軒先に飾り、屋根に葺き、酒に浮かべ、そして湯に入れていました。
これらの植物には邪気を払う力があると信じられていた一方で、実際には体を温めたり、神経痛や冷えを和らげたりする働きもあると考えられていました。
ここで、ふと不思議に思います。
なぜ昔の人は、「魔除け」と「薬効」を同じ草に託したのでしょうか。
私たちは、「効くこと」と「信じること」を別々に考えます。
効く理由は成分や作用で説明し、信仰や祈りはまた別の世界の話として考えます。
科学と信仰は、違う引き出しにしまわれています。
けれど、昔の人は違いました。
病とは、目に見えない悪いものが体に入り込むこと。
穢れも、邪気も、疫病も、どれも同じように「外からやって来るもの」だったのではないでしょうか。
そう考えると、強い香りを放つ菖蒲や蓬は、その目に見えないものを遠ざける草でした。
そして同時に、体を温め、痛みを和らげる草でもありました。
つまり、「魔除け」と「薬効」は別々の力ではなく、
「人を守る」という一つの働きを、違う言葉で表していただけだったのかもしれません。
分けていなかったのではなく、分ける必要がなかった。
そう考えると、どこか腑に落ちる気がします。
私は毎年、夏になると梅干しを漬け、生姜を刻み、紫蘇で漬物を仕込みます。
野草茶を淹れたり、発酵食品を育てたりする時間も好きです。
手を動かしながら、いつも思います。
発酵という営みもまた、「目に見えない働き」を信じることと、「実際に体によい変化」が起こることが、切り離せない世界なのだと。
塩を振り、重石をのせ、あとは静かに待つ。
そこには微生物が働く科学があります。
でも同時に、「うまく育ってくれますように」と願うような時間も流れています。
その二つは、私の中では不思議なくらい自然につながっています。
きっと菖蒲湯も同じだったのでしょう。
香りの効能を知ること。
その香りに守られていると感じること。
本当は、その二つは一つの体験だったのではないでしょうか。
私たちは世界を理解するために、名前をつけ、分類し、整理してきました。
それは大切な知恵です。
けれど、その手前には、まだ分けられていない世界がありました。
香りに包まれ、季節を感じ、植物に守られているような安心感を、そのまま受け取っていた時間です。
今年も五月になったら、菖蒲を一枝、湯船に浮かべようと思います。
効くかどうかを考える前に。
ただその香りに身をゆだねながら、昔の人たちが感じていた世界を、少しだけ思い出してみたいのです。
野原には、まだ名前も知らない野草がたくさんあります。
私も散歩には野草図鑑を一冊持って歩きます。名前を知るだけで、景色は少し違って見えるようになります。
私が愛用している野草図鑑はこちらです。

