見出し画像

【全国戦没者追悼式】高市首相「反省」なし、「戦争の惨禍を二度と繰り返さ『せ』ない」

敗戦から81年となった8月15日、高市首相は全国戦没者追悼式の式辞の中で「反省」には触れなかった。さらに、「戦争の惨禍を、二度と繰り返させない」と述べた。歴代首相は「繰り返さない」と述べてきたが、「せ」の1文字を加えたのだ。「侵略戦争」を起こした日本の不戦の決意を述べていたが、戦争に追い込まれた末の「自衛戦争」だったと主張しているのだ。ゆがんだ歴史認識の表れである。

全国戦没者追悼式(首相官邸ホームページから)

侵略の歴史を駆け足で振り返ってみたい。
1890年に開設された第1回帝国議会で、山縣有朋首相は施政方針演説で「国家として独立を維持するためには、本来の国境線である『主権線』のほかに『利益線』を確保しなければならない」と主張した。主権線は領土、利益線とは日本の安全に緊密に関係する近隣地域のことで、その焦点が朝鮮半島にあると位置づけた。
4年後に日清戦争に突入。勝利した日本は下関条約で清国から台湾の割譲、朝鮮の宗主権(内政や外交を管理・支配する権利)を断ち切る。遼東半島を獲得しながらも三国干渉で返還。その後、遼東半島に進出したロシアと朝鮮半島の支配権をめぐって激突し、1904年に戦端が開かれる。

山県有朋(首相官邸ホームページより)

最大の激戦地は朝鮮半島の西端に位置する旅順をめぐる攻防戦。日本軍は多くの犠牲を出しつつも二〇三高地を占領、ロシアの旅順要塞を陥落させる。旅順港内のロシア艦隊を壊滅させ、後顧の憂いなくバルチック艦隊を迎え撃ち、撃滅した。
日露戦争は早期講和に持ち込んだ外交の勝利だった。日本はポーツマス条約で朝鮮半島での優越権を認めさせ、1910年に韓国併合。敗戦までの35年間、朝鮮半島を植民地支配する。
旧満州(中国東北部)の南満州鉄道や鉱山などの経営や関東軍を駐留させるなどの利権を得た日本の侵略はとどまるところを知らない。1931年9月、関東軍は南満州鉄道を爆破。「中国の犯行」として軍事行動を起こし、満州を占領した。資源や新たな利権獲得が目的で、翌32年に傀儡国家「満州国」を建国。国際連盟の総会で日本の満州撤退勧告案が可決されたが、日本は拒否。国際連盟を脱退し、孤立を深めていく。
1937年7月、日本軍は北京郊外の盧溝橋で中国軍と衝突、宣戦布告のないまま全面戦争に突入。政府の不拡大方針を無視して戦火を全中国に広げた。その年の12月、首都・南京を占領。非戦闘員の大量虐殺を起こす。
蒋介石政権は重慶を拠点に移して抵抗を続け、日中戦争は終結の見通しもたたないまま泥沼化していく。
一方、日本国内では「五・一五事件」や「二・二六事件」、さらには「軍部大臣現役武官制の復活」により、政党政治が軍部に逆らえない体制ができ上がっていた。国民世論も新聞やラジオの勇ましい報道にあおられて軍部を支持。治安維持法によって厳しい監視体制が張り巡らされていった。
1938年に「国家総動員法」が定められ、貯蓄増強、金属供出、勤労奉仕などの経済的な戦争協力が強化されていく。ほどなく、配給制度が始まり、生活必需品は切符や通帳がなければ買えなくなった。戦争遂行に市民を協力させるために町内会が整備され、その下に「隣組」が作られた。
1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が勃発。フランス降伏を受け、日本はドイツとイタリアと三国同盟を締結。仏印進駐により、対米英関係はより悪化。1941年12月8日、太平洋戦争勃発する。
その結果、日本人で約310万人、アジア諸国で2000万人以上の犠牲者を出したと言われている。

田中角栄元首相(首相官邸ホームページより)

旧ソ連軍と関東軍が衝突したノモンハン事件で九死に一生を得て、後に首相になった田中角栄は「戦争を知っているやつがいるうちは、日本は安心だ。戦争を知らない世代がこの国の中核になった時が怖い」と語ったという。それがまさに今だ。
侵略戦争を美化し、反省を忘れれば、同じ過ちを繰り返す。(矢野宏)




いいなと思ったら応援しよう!