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【ショートショート】三十四階まで、あと九分

母の薬を、鞄に入れ忘れた。

気づいたのは、オフィスビルの一階に着いたときだった。

母は三十四階の会議室にいる。年に一度の株主総会で、社外役員として壇上に座っている。持病の発作は、決まって緊張のあとに来る。

私は総会の受付を手伝う名目で、薬を届けるためだけに来ていた。

腕時計は十時五十一分。

総会が終わるのが十一時ちょうど。母が壇を下りて、控室に入る。発作が出るとしたら、そのあとの五分から十分だ。

九分。

エレベーターホールへ走って、足が止まった。

十六台ぶんの表示が、全部「点検中」で赤く光っている。

案内に立っていた警備員が、申し訳なさそうに頭を下げた。

「三十分前から全台停止です。制御盤の異常で、復旧の見込みが立ってません」

「非常用は」

「そちらも同じ系統でして」

私は階段の場所を聞いた。

「三十四階まで階段でですか。お客様、七百段以上ありますよ」

構わなかった。

非常階段の扉を押し開けた瞬間、頭上でかちりと音がした。

蛍光灯が、上へ向かって順に点いていった。

私は一段飛ばしで駆け上がった。

段の縁が白く光っている。踊り場の壁に書かれた階数も、走りながら読めた。

五階。八階。

十階を過ぎたあたりで、腿が言うことを聞かなくなった。

十五階で、私は手すりにしがみついて、初めて時計を見た。

十時五十五分。四分で十五階。

残り十九階を、五分。

無理だ、と頭の隅で声がした。

それでも足を出した。

二十階の踊り場で、私は転んだ。

膝を打って、薬の箱が手から飛んで、階段を三段ほど滑り落ちた。

箱は、下の踊り場の隅で止まっていた。

白い角が、はっきりと見えた。

四つん這いのまま、私は一瞬だけ動けなくなった。

見える、と思った。

去年の今ごろだ。

同じ総会の準備で、私は資料の段ボールを一階から二十階まで運ばされた。エレベーターが混んでいて、何往復もした。

あのとき、非常階段は真っ暗だった。

電球はほとんど切れていて、点いているのは非常灯の緑だけ。段の縁が見えないから、片手で手すりを握って、一段ずつ足で探りながら上がるしかなかった。

四往復目に、私は踏み外した。

段ボールが裂けて、資料が下の階まで散らばった。暗がりを手で探って拾い集めるのに、二十分かかった。

私は総務に文句を言った。

——非常階段の電気を、全部点けてください。

——誰も使わないと思っているんでしょうけど、使う日があります。

総務の人は面倒くさそうに聞いていた。非常灯があるから法令上は問題ない、と言われた。

私は引き下がらなかった。人感センサーの見積もりを自分で取ってきて、二度、三度と掛け合った。

みっともない、と言われながら。

翌月、非常階段の照明が入れ替わった。

そのことを、私はすっかり忘れていた。

膝は痛かったが、立てないほどではなかった。

薬の箱を拾って、私はまた上がりはじめた。

暗ければ、こうはいかない。

段の縁が見えるから、足を置く場所を探さずに済む。手すりを掴まなくていいから、腕を振れる。壁の階数が見えるから、あと何階かを数えなくていい。

二十五階。

三十階。

三十四階の扉を押し開けたとき、時計は十一時ちょうどだった。

廊下の奥から、拍手の音が漏れてきていた。

控室の前で、私は膝に手をついて息を整えた。

扉が開いて、母が出てきた。

顔色が、すでに白い。

私は何も言わずに薬を渡した。

母は驚いた顔をして、それから受け取って、口に入れた。

「エレベーター、止まってたでしょう」

「うん」

「階段なの」

「うん」

母はしばらく黙っていた。

それから、廊下の壁にもたれて、小さく笑った。

「あなた、去年、階段の電気のことで総務に何度も掛け合ったでしょう」

私は顔を上げた。

「あのとき、恥ずかしいからやめなさいって言ったの、私」

覚えている。

みっともないから騒ぐな、と言われた。

「ごめんね」

母は言った。

「点けてもらっといて、よかったね」

十一時二分。

拍手はもう止んでいて、廊下には人が流れ出してきていた。

その中を、母は自分の足で歩いていった。

私は壁にもたれたまま、しばらく立てなかった。

真っ暗な階段だったら、私はたぶん十五階で止まっていた。

上がれたのは、去年の私が、あの明かりを点けさせたからだ。


あとがき

間に合うかどうかは、たいてい、その九分の中では決まりません。

一年前に誰かが言ったことや、面倒くさがられながら通した要求が、忘れたころに効いてきます。

いま無駄に見えている抗議も、たぶん、どこかの階段を照らしています。

著者について

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

UTAKATA STUDIO(ウタカタスタジオ)は、ショートショートを作っている制作スタジオです。日常のすぐ隣にある、小さな違和感や見落とされた真実を、十分ほどで読み切れる形にして置いています。

既刊は『8番目の踏切 ― 15の小さな真実』と『おりがみ通り』の二冊です。どちらも¥250、Kindle Unlimitedでもお読みいただけます。

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※本作は生成AIを活用して制作しています。

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