【ショートショート】名前屋
商店街の裏に、名前屋がある。
看板は出ていない。硝子戸に、白い字で「名」とだけ書いてある。
私がそこへ行ったのは、自分の名前を忘れたからだ。
正確には、忘れたのではない。
呼ばれなくなった。
会社では役職で呼ばれ、家では役割で呼ばれる。免許証にも保険証にも書いてあるのに、口に出して呼ぶ人が、この十年で一人もいなくなった。
名前屋の主人は、若い女だった。
私が事情を話すと、彼女は頷いた。
「よくあります」
そして、帳面を出してきた。
分厚い、糸で綴じたものだった。
「うちには、置いていかれた名前が三千ほどあります」
「探してもらえますか」
「探しません」
彼女は帳面を、私のほうへ滑らせた。
「うちは預かるだけです。ご自分で見てください」
一行に一つずつ、名前が並んでいた。
姓はない。名だけだ。
私は三日通って、三千を全部読んだ。
古い名も、新しい名も、読み方の分からない字もあった。同じ名が何度も出てくることもあった。
私の名前は、なかった。
四日目に、そう伝えた。
彼女は驚かなかった。
「無いということは、置いていかれていない、ということです」
「どういう意味ですか」
彼女は説明した。
「うちに来るのは、大事にされていた名前だけです。呼ばれなくなっても、本人が好きだった名前は、行き場を求めてここへ来る。嫌われていた名前は、来ません」
「じゃあ、どこへ行くんですか」
「どこへも行きません。ずっと、その人のところにあります」
私は自分の胸のあたりを見た。
何もない。
「嫌いなものほど、離れないんです」
彼女は言った。
「あなたの名前は、たぶん一度も出ていっていません」
私はその名前が、好きではなかった。
古臭いと思っていた。学生のころ、何度も改名を考えた。三千の中を探しているあいだも、正直なところ、見つかってほしくないような気がしていた。
彼女は、帰りぎわに一つだけ言った。
「声に出してみてください。それだけです」
馬鹿げていると思った。
けれど、誰もいない道で、私は自分の名前を言ってみた。
声に出すのは、たぶん三十年ぶりだった。
返事はなかった。
その代わり、妙なことが起きた。
言いにくかったのだ。
古臭いと思っていた響きが、口の中でうまく転がらない。舌が、その形を忘れていた。
私は何度か繰り返した。
五回目で、ようやく滑らかになった。
そのとき、思い出したことがある。
母が私を叱るときにフルネームで呼んでいたのは、事実だ。
だが、もう一つあった。
私が高熱を出した夜、母は名前だけを繰り返し呼んだ。
苗字は付けずに、名前だけを。
あれは叱っていたのではない。
確かめていたのだ。
私が、まだそこにいるかどうかを。
翌週、私はもう一度、名前屋へ行った。
彼女は驚かなかった。
「思い出しましたか」
私は、訂正しに来たのだと言った。
「私はあの名前が、嫌いではありませんでした。呼ばれ方が嫌いだっただけです」
彼女は少し笑って、帳面を閉じた。
「では、なおさら、うちにはありません」
「ええ」
「よかったですね」
店を出るとき、私は聞いた。
「三千の名前は、どうなるんですか」
「待っています」
彼女は言った。
「呼ぶ人が、いつか思い出してくれるのを」
私は今、月に一度、母のところへ行く。
母はもう、私の名前を呼ばない。呼べないのだ。
だから私が、自分の名前を言うことにしている。
「来たよ」と言ってから、名前を名乗る。
母は毎回、少し驚いた顔をして、それから頷く。
分かっているのかどうかは、分からない。
ただ、名乗るたびに、その名前は少しずつ言いやすくなっている。
三千の名前を全部読んで、そこに無いと分かるまでに、私は三日かけた。
自分の胸にあるものを確かめるのに、三日かかったということだ。
あとがき
呼ばれなくなったものが、どこへ行くのか、という話です。
好きなものは離れていき、嫌いなものは離れない。名前に限らず、そういうものはいくつかある気がします。
もし気に入った話があれば、既刊のほうにも同じ手ざわりの話が並んでいます。
著者について
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
UTAKATA STUDIO(ウタカタスタジオ)は、ショートショートを作っている制作スタジオです。日常のすぐ隣にある、小さな違和感や見落とされた真実を、十分ほどで読み切れる形にして置いています。
既刊は『8番目の踏切 ― 15の小さな真実』と『おりがみ通り』の二冊です。どちらも¥250、Kindle Unlimitedでもお読みいただけます。
▼『8番目の踏切 ― 15の小さな真実』(独立した15話。奇妙・ダーク・パニック・ファンタジー・恋愛)
▼『おりがみ通り』(一つの通りを舞台にした連作短編集。読み終えて時系列を並べ直すと、全ての因果が繋がります)
▼ カクヨム(短編の連載・作品一覧)
▼ X(新刊のお知らせ・掌編)
スキやフォローをいただけると、次を書く励みになります。
UTAKATA STUDIO
※本作は生成AIを活用して制作しています。
