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「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」を見る(前編)

 東京国立近代美術館の戦争芸術展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」を見に行ってきました。前後編2回に分けて展覧会の展示物をご紹介したいと思います。前編では、戦争芸術展を知ったきっかけと、日本の侵略行為を表現した展示物についてご紹介して参ります。


東京新聞の記事で知った企画展

 先日、東京国立近代美術館(以下「東近美」)で、2025年7月15日から10月26日まで開催された戦争がを中心とした企画展「記録をひらく 記憶をつむぐ」に足を運びました。展示会では、東近美が管理する153点のうち、藤田嗣治「アッツ島玉砕」(1943年)、中村研一「コタ・バル」(1943年)といった作品24点のほか、丸木位里・俊夫妻合作の「原爆の図 第3部 水」(1950年~1951年)などが展示され、戦争中、戦後の戦争を描いた作品280点が展示されました。

 日本の近現代史を考えるのみならず、戦争芸術をどう考えるかという観点としても興味深い企画展でしたが、東近美は展覧会のチラシ、ポスターを作製しておらず、企業との共催もない単独開催と極めて異例な形となりました。私も、東京新聞の「こちら特報部」で企画を知った次第です。東京新聞の取材に対し、東近美は、センセーショナルな宣伝をしたくないことと、東近美は歴史認識を問う立場ではなく、展示の文脈の意図と異なる切り取られ方をし、言葉が独り歩きすることを避けたかったと回答をしています。(※1)確かに、芸術をどう考えるかという観点と歴史認識は異なるものではありますが、企画展を催すにあたってチラシ、ポスターを作らないといった姿勢は極めて消極的に過ぎるのではないかとも思いました。

 東京新聞以外で取り上げたメディアとしては、NHK-Eテレの「日曜美術館」で2025年9月21日に放映された「戦後80年 戦争画と向きあう」があります。ただ、東近美が大々的な宣伝をしていないこともあり、常日頃から美術に関心を持ち、展覧会の情報をチェックしていない限りは見過ごしていた人もいたかもしれません。現に、東京新聞の記事では、他の新聞記事で展示会を知ったとの閲覧者の声もありました。(※2)

 ただ、そんな状況ではありますが、芸術作品の観点から戦争を考えること、当時の生活状況を芸術作品を通して知るという意味で、絶好の機会に巡り合えたことは幸いであると言えます。また、展示作品は写真での撮影が認められている作品も多かったため、note上でも多くの展示作品を紹介できることもよかったと感じております。

 今回は、展示作品のほか、当時の生活を知る手がかりとなったパンフレット、写真誌なども併せて展示をされているので、そちらについてもご紹介します。写真であることや影があるため、お見苦しい点もありますが、資料としてお役に立てればありがたいと思っております。今回は、私の歴史認識を踏まえた形での美術展評がありますが、戦争芸術は描き手の個性も反映させたものであり、様々な解釈があって然るべきものであるので、私の論評は素人の感想程度に思っていただければと存じます。

企画展作品

戦争をゲーム感覚でとらえている描写

「支那事変大勝記念号」(「講談社の絵本第50号)大日本雄弁会講談社 1938年

 家族みんなが手紙を読んでニコニコと喜んでいますが、どんな手紙の内容なのでしょうか。絵本右側にはこのように書かれています。

兄さん バンザイ
 戦地に行っている兄さんから「敵の陣地へ一番乗りをしました」という嬉しいお手紙が来ました。おじいさんを始めうち中こぞって思わずバンザイを叫びました。「兄さんバンザーイ」「バンザイバンザイ」の声でみんな大喜びです。(注:原文を一部漢字とし、ひらがなに変更)

「支那事変大勝記念号」(「講談社の絵本第50号)大日本雄弁会講談社 1938年

 解説では、「講談社の絵本」シリーズは日中戦争が勃発した1937年以降軍国美談などの戦争物を発行し、絵画による戦争のビジュアル化の先駆けになっていたことが記されていました。ここには当然、中国への日本の侵略によって無辜の中国の人々が殺され、財産を奪われたことなどの残虐性や非道性はもちろん、戦地で自分の命も失うことの悲劇性を感じさせるものは一切ありません。ただ、どこを占領し、陣地を取る取らないというゲーム感覚しかありません。

 講談社は現在、週刊現代、Fridayなどを、子会社である光文社は、Flash、女性自身などを刊行しています。それらの雑誌が時代の風潮に迎合をしていないか、冷静な目で判断することが私たちに求められていると考えます。

朝鮮人皇民化の問題点が欠落した作品

岩崎勝平「薬水を汲む」 1941年頃

 解説には、絵を描いた岩崎は、1937年の暮れから1938年にかけて朝鮮へ取材旅行に出かけており、その取材を基に描いた作品であることが記されています。朝鮮の風俗を描くにあたっては、女性と水辺をモチーフとするのが基本とされていたそうです。何気ない風景であり、民族服の女性という絵的にも見る側をほのぼのとさせるところがありますが、実際の戦争中の朝鮮植民地はどのような状況だったのでしょうか。

「逞しい朝鮮の銃後」「写真週報第284号」 1943年8月11日

 この展示物は太平洋戦争中の1943年の週刊誌記事になります。記事では同年に朝鮮人に徴兵を義務付けたことや、朝鮮人の神社参拝、鉄器を軍備に供給する様子など、朝鮮人が皇民化政策に収れんされようとし、民族アイデンティティが奪われつつある状況をうかがい知ることができます。岩崎の作品からは、以上の朝鮮における民族アイデンティティ消滅の危機という背景を意識させず、日本の一風俗としての朝鮮という植民地における差別的構造をそのままに、同化させることを促進させる効果があったと言えるでしょう。

満州国美化のイメージにつながった作品

リウ・ロンフォン 「満州の収穫」 1930年

 この絵は、中国系日本人リウ・ロンフォンによって描かれたもので、満州事変勃発の1年前に描かれました。解説では、この作品は日本の満州を始め、中国への軍事による勢力拡大をプラスイメージさせる要素を含んでおり、この田園風景のモチーフが満蒙開拓団の広告として使われたことが指摘されています。

「満州へ!!」 拓務省ポスター 1930年代

 このポスターは、大地の実りを強調したものとなっており、満州における開拓のイメージとして考慮した際に、先に挙げたリウ・ロンフォンの「満州の収穫」とも重なります。

 実際の満蒙開拓団はどういったものだったのかについては、私が以前noteに上げた記事「山田昭次著「植民地支配・戦争・戦後の責任」の中から「満州の日本人農業移民と中国人・朝鮮人」を読む」をご参照いただければと存じます。

五族協和の幻想

岡田三郎助 「≪民族協和≫絵葉書」
民族協和の国 「満州グラフ第8巻1号 1940年1号」

 五族協和と呼ばれる、日・朝・満・蒙・漢の民族の協和を建前とした満州国のスローガンをイメージした絵と写真になります。元々は孫文の中華民国建国の理念である「満・蒙・回・蔵・漢」の五族共和からとったものです。満州に日本の傀儡国家を建国するにあたって、その正当性をでっち上げるべく、つくられたキャッチコピーが五族協和です。こちらの絵、写真では女性を使ったソフトイメージ戦略が伺えます。なお、写真の人物はすべて日本人であることを申し添えます。

侵略された側は戦争をどのように表現をしたか

リウ・カン 「チョプスイ」世界科技出版公司 2014年

 この作品は日本軍の圧政と暴力に対するエピソードを現地の画家リウ・カンが絵本の形で書いています。ここに展示されている文章の内容をここに転写します。

Pedal your own rickshaw
  Apart from massacres and other atorocities, the Japs made a practice during the early days of occupation of insulting the Chinese on every possible occasion. In Singapore, the area around Havelock Road became notorious in this respect. Should a husband a wife dare attempt to pass a sentry without getting down from the rickshaw, the sentry would force the husuband to get down and the rickshaw coolie to take his seat beside the wife, and then make the husband pull the rickshaw with wife and coolie in it.

 自分のリキシャをこぐ
 占領された初期の頃、日本の奴らは、虐殺、残虐行為のほかにあらゆる場面において、中国人を侮辱した。シンガポールのハヴロック・ロードの周辺は「敬意を払うこと」で悪名高いものとなった。ある夫妻がリキシャから降りることなく、日本の哨兵を通り過ぎようとした際、哨兵は夫をリキシャから降ろさせ、クーリーに夫の席に座るように命じた。そのため、その夫は自分の妻とクーリーを乗せたリキシャを引きずらなければらなかかった。
(注:訳は宴は終わったがによる)

リウ・カン 「チョプスイ」世界科技出版公司 2014年

占領された側は日本の占領をちっとも歓迎していないのですが、占領をした側は以下の記事を掲載しており、自分のことしか考えていない様子がわかります。

「ニッポンゴで埋め尽くす 昭南島」「週刊週報第230号 1942年7月22日」

タイトルだけでも傲慢さをうかがい知ることがわかるかと思います。

向井潤吉 「四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)」 1942年
フェルナンド・アモルゾロ 「バターンの少女」 1942年

後に「バターン死の行進」で多くの捕虜を死なせることになった、バターンの占拠を表現した絵になります。向井が描いた日本の視点が占拠の成功性を強調しているのに対し、アモルゾロの絵が日本軍によって死んだ兵士を憐れみ、共にあるという女性を描くという対照的な構図になっていることが伺えます。

白郎砂 「十二・九」救亡運動
「現代版画」第16集 現代版画会(広州) 1936年2月

 日本の中国侵略に対する、抗日運動の一環として作成された木版画になります。木版画で拷問をしている様子からは、中国の人が日本軍が中国にしてきたことをどのように感じているのかが伺えます。

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 いかがだったでしょうか。後編では、日本が起こした戦争の結果、どのような悲劇が私たちに起きたのか、また、戦後において戦争がどのように表現されるようになったのかの展示物をご紹介したいと思います。

次回投稿日変更のお知らせ

 次回は、都合により、2025年11月7日金曜日18時から21時の間に記事を掲載させていただきます。よろしくお願いします。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) 東京新聞 2025年9月15日 P20~P21

(※2) (※1) 同上

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