台湾に関する雑感⑥・日々の雑感⑩-戴国輝「日本語と私」より
英語帝国主義を肯定したインド人
(イギリスの植民地支配を受けた国が無条件に英語をありがたがるのか。)そんなことを戴國輝の「日本語と私」(※1)に出てくる英語を誇りに思うインド人のエピソードから感じた。エピソードは、1950年代末、日本に留学しているインド人が日本語は難しいから英語で講義をしてほしいと指導教授に要望したことに対し、日本に留学したのだから日本語で聴講すべきだと反論をした韓国人留学生に対して怒るというものであった。その様子について戴は次のように描写する。
「H君(筆者注:韓国人留学生)は、一体どういう料見(原文ママ)だろう。三流(原文では点で強調)帝国主義たるに日本の支配を受け、それで覚えた日本語を有難く思っているとでもいいたいのだろうか。なんという奴だ」
「一寸待ってくれよ、S君。H君を君は誤解していると思うね。彼は何も日本語を特別有難いとは思っていないだろうよ。その証拠の一つに、南朝鮮(原文ママ)では、絶対といっていい程に、日本語を朝鮮人は口にしないそうだよ」
「ところで、君はやはり英語が一流の帝国主義で、その英国に支配されてよかったと思うのかね」
「植民地支配はもちろんいやだ。だが同じ支配をされるのであれば、三流よりかは一流の英語に統治された方がいいだろうよ。なにしろ英語は万国共通で便利だからね」
「S君、インドの大学はいまなおほとんどの講義が英語でされているそうだが・・・・・・」
「ああ、その通りだよ。英語の方がヴォキャブラリーが豊かで、インド教養階級の唯一の共通語であるからだ。それに、われわれはもともとアーリアンだからね」
誇り高きアーリアン、S君まさに、ここにきわまれりというべきか。
誤解のないように補足すると、インドが英語を公用語として共通言語にしているのは、インドが多言語で構成されている社会であり、インド国内の一つの言葉を押し付けることが、インド内における異言語間での衝突を招くために、便宜的に英語を公用語にしているに過ぎない。
また、このインド人留学生の自負心の背景には、英連邦植民地内においてインド人がイギリス人に次いで主要な地位を占めていたことがある。満州において日本の植民地支配下にあった朝鮮人が中国人に威張り散らしたエピソードや、戦時における労働への強制連行において日本側が朝鮮人の食事、給与を中国人より少し良くするなど処遇面で差をつけたやり方と同じである。(※2)
植民地にされた地域において比較的優位に立つ被植民者を、他の植民地よりも相対的に優位に立たせることで宗主国への不満を抑えること、またそれ以外の植民地において宗主国に対する不満を相対的に優位に立つ被植民者に向かわせる巧妙なやり方であると言えるだろう。戴の「誇り高きアーリアン、S君まさに、ここにきわまれりというべきか。」とは、そうした事実を踏まえ、インド人であるS氏がイギリスの植民地支配の問題点に対する本質的なことを理解していないことに対するユーモアを交えた嘆きなのかもしれない。
植民地台湾における日本語帝国主義
以上を踏まえ、戴は本論である植民地台湾における日本語帝国主義の問題点を指摘する。戴は日本の植民地支配は、被植民者の母語の公的領域からの排除と無力化、無価値化を図る一方で、漢詩に入れ込んだり、中国の書画骨董に惚れこむといった点で、必ずしも宗主国の側が文化、社会の点などの本質的には植民地台湾に優位に立てていなかったのではないかとしている。ただ、同時に被支配者たる台湾人は近代化の過程においては宗主国である日本語を学ぶことを余儀なくされたことにも言及をしている。(※3)
近代化の機会を逃して植民地とされた地域が、宗主国からの脱却を図るべく対抗をして近代化するには宗主国の言語を学ぶことを余儀なくされる。帝国主義によって優位に立った列強は、被植民地が宗主国の言語を使うことを余儀なくされる構造を確立したという点に言語帝国主義の問題の本質がある。
今も残る言語帝国主義
列強によって列強の言葉を使うことを余儀なくされた被植民地の人々の悲劇は今も続く。高等教育機関において旧植民地国の多くで、英語やフランス語が使用されているのは、近代化の過程において自国の言葉で近代化の概念を理解、消化することができなかったことに一因がある。
「信仰に対する雑感⑦」でも触れたが、フィリピンにおいては、高等教育機関において特別に自国の言語を学ぶといった教科を除き、すべて英語で行われている。私にそのことを語ったフィリピン人の英会話講師は英語で講義が行われていることについて言語帝国主義の観点から話したわけではないが、私自身はこれは英語帝国主義が招いた惨禍なのではないかと考えた。また、先の引用箇所にある、インドにおいて英語が教養階級の言語として使われているということは、宗主国の言葉を受け入れるか否かによって自身の階級自体が決まることを意味し、植民地支配の影響を特に受けた地域においては言語帝国主義の問題点がより露骨に出るいることがわかる。
私が中学校で使っていた英語教科書では、英語が使われているのはアングロサクソン以外にもあり、英語が国際水準であるからとして積極的に使うべきというスタンスが記されていたことを思い出す。だが、これらの国々の大半はイギリスの植民地支配下に置かれていた国であり、今にして思えば英語帝国主義をそのまま無批判的に受け入れていたということなのではないかと自省するようになった。
また、韓国、台湾、中国で一定程度日本語が理解できる人がいるが、そこにあるのはかつての大日本帝国における帝国主義政策の影響があったと言える。ポーランド、チェコを旅行をした際に道を訊ねた際に、ドイツ語なら分かると言われたが、ここにもドイツ系による多民族支配の言語帝国主義があるのだなと感じさせられた。
言葉を学ぶということはどういうことなのか、言葉を学ぶ際に単に世界で通じるからとか、主要な言語であるからということを無批判に受け入れることが何を意味するのかは省みるべきではないか。戴國輝が植民地支配下の台湾に生まれたことで、自身が受けた言語帝国主義の問題と向かい合って執筆したであろう「日本語と私」を読んでそんな想いを抱かずにはいられない。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
脚注
(※1) 戴國輝 「台湾と日本人」 「日本語と私」P300~P302 研文出版
(※2) 山田昭次 「満州の日本人農業移民と中国人・朝鮮人」 「植民地支配・戦争・戦後の責任」 P192 ~P193 創史社
(※3) 戴 前掲 P306~P307
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