見出し画像

「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」を見る(後編)

 東京国立近代美術館で催された戦争芸術の展示「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」についてご紹介しています。後編では、日本が起こした戦争の結果どのような悲劇が私たちに起きたのか、戦後の表現者はどのように戦争を描いたかの展示物をご紹介します。


企画展作品

空襲の悲劇を描かない作品

田辺至 「南京空襲」 1941年頃

 こちらの作品は日本軍による中国での爆撃を描いた作品ですが、爆撃されたことによって、多くの人々が殺され、財産を奪われるという発想の視点はここにはありません。空爆によって多くの市民が苦しむ様子を描いたピカソの「ゲルニカ」とは対照的と言えます。ちなみにLIFE誌には、同じ中国の都市である重慶の爆撃後の街の写真を掲載しています。

「重慶」 「LIFE 1941年3月31日号」

 サイパンが陥落し米軍による空襲が増えてくると、空襲に対するポスター、絵画も描かれるようになりますが、そこに描かれるのは空襲に対する備えを強調するものであり、空襲による悲劇が描かれることはありませんでした。

「空襲!備へよ防毒面」 東京・藤倉工業株式会社ポスター

 こちらは、空襲の際に毒ガスがまかれることへの警戒を促すポスターになります。以前、私の記事では中国で毒ガスを使用した将校の話に言及をしましたが、(※1)毒ガスが使われるかもしれないという警戒心があったのでしょうか。

鈴木誠 「皇土防衛の軍民防空団」 1945年

 焼夷弾によって家が焼かれ、多くの人々が逃げまどうとともに、消火活動によって焼夷弾に対抗をしようとする様子が描かれています。ただ、この絵でも空襲によって多くの人々が命、財産、健康を失ったといったことには言及がされていません。むしろ、空襲に対して防空活動によって安全を守ろう、という当局のプロパガンダに忠実に描いている側面が強いでしょう。

戦場での死を美化する作品

藤田嗣治 「サイパン島同胞臣節を全うす」 1945年
藤田嗣治 「アッツ島玉砕」 1943年

 両方とも、兵士や民間人による集団自決という名で、軍部の上層部によって殺された出来事を描いています。これらの絵は暗い色を使って表現をしているとは言え、悲惨さをあまり感じさせない形の作品となっています。戦争中に集団で死ぬことを強制することを美化した風潮からすれば、崇高さを感じた人も当時はいたかもしれません。現に写真週刊誌では、別れの盃を飲む兵士の様子について、勇ましさを感じさせる形で表紙の写真に用いられています。

写真週報第276号 1943年6月16日

既に、1932年2月22日に自爆攻撃で陣地を攻撃したとされる爆弾三勇士を美化した風潮もあり、それに乗じて森永製菓は爆弾三勇士を使ったミルクキャラメルを販売していました。当時は犬養毅内閣でまだ政党内閣でしたが、人の命を軽んじるルーツがここにあったとも言えるでしょう。

爆弾三勇士記念 森永ミルクキャラメル

この爆弾三勇士によって人の生命を軽んじる風潮が行き着いた結果が、以下に紹介する作品となって表れたのかもしれません。

田村孝之助 「佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す」 1944年

 この絵は、ガダルカナル島での米軍中枢への奇襲作戦で命を落とした大野挺身隊を描いたものであり、絵の中では部隊長から挺身隊の3人が別れの盃を受ける様子を描いています。ただ、盃を受ける3人に対しては光らしきものが当てられている形のため、悲惨さよりは神々しさをイメージさせる形となっています。

戦争において女性はどのように描かれたのか

大東亜美術家奉公隊 「大東亜皇国婦女皆働之図」 春夏の部 1944年
大東亜美術家奉公隊 「大東亜皇国婦女皆働之図」 秋冬の部 1944年

 戦争において女性は、戦時労働力とされ、男性が徴兵で動員された欠員分を補充する形で工場などで働くこととなりました。上の作品「春夏の部」はそうした女性の「社会進出」を描いています。ただ、女性が男性をサポートするという役割はそのままであり、下の作品「秋冬の部」にあるように戦地に送られる兵隊を慰労するという役割も強調されています。むしろ、戦力への後方支援的な役割として女性が戦争に協力をする総動員体制のコマとしての役割を担わされたという意味では、女性の地位の付随的要素は強まった側面があるかもしれません。

戦後において戦争はどのように表現されたのか

丸木位里・俊 「原爆の図 第3部 水(再制作版)」 1950~51年(1974年加筆)
中沢啓治 「はだしのゲン」 「週刊少年ジャンプ1973年11月12日号」
中沢啓治 「はだしのゲン」 「市民」創刊号 1975年9月

 広島での原爆の問題を描いた作品として、大半の人がイメージするのは丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」と、中沢啓治の「はだしのゲン」ではないかと思います。ただ、同じ原爆をモチーフにしているとは言え、両者には違いもあります。

 丸木夫妻は原爆について、被害、犠牲を作品では強調している側面が強いと言えます。これに対し、中沢の場合は、単に原爆の悲劇を描いたことに留まらず、その背景にある天皇制国家主義の残虐な側面である、中国への侵略、朝鮮人差別、沖縄などでの集団自決、学校教育が天皇制国家主義浸透の手段として用いられたこと、また、学校における権威主義的体質が戦後も続いていたことなどについて、作品で言及されています。中沢は、原爆の悲劇に留まらず、なぜ原爆が落とされたのかという根本的な原因を追究しようとする姿勢がうかがえると言えます。

沢田教一 「戦場 沢田教一写真集」 毎日新聞社 1971年

 沢田教一の写真で、ベトナム戦争での悲劇を描いたピューリツァー賞受賞作である「安全への逃避」です。ベトナム反戦運動が盛んになった当時、日本でも「ベトナムに平和を!市民連合」が結成されました。現在のウクライナ戦争、ガザ紛争、ミャンマー内戦など戦争の危機は以前として続いていますが、現状はベトナム戦争時ほど反戦が行われる傾向にあるでしょうか。

アサヒグラフ 1972年12月20日号

 沖縄の日本復帰に関する写真記事になります。沖縄における米軍基地の問題はいまだに深刻であるとともに、台湾有事が煽られることで常に戦火のリスクを抱えることになる沖縄の人たちに、沖縄以外の人たちはどのように向かい合うべきなのでしょうか。

元日本兵小野田寛郎とスニヨン(中村輝夫)に関する表紙

 ジャングルで生き続けた元日本兵としては、横井庄一、小野田寛郎が有名ですが、台湾の先住民スニヨンについては、あまり焦点が当てられていません。日本の植民地支配下の台湾において、皇民化教育の影響を一番受けることを余儀なくされたのが、先住民であることは否めません。戴国輝氏はスニヨンについて次のように述べています。

 中村輝夫の生還は、言葉は悪いかも知れないが「植民地兵士」の亡霊が突如として現われたといってよい。というのも彼は植民地統治の最底辺の犠牲者であり、侵略戦争の擬制的加害者であった一方、もともとは「聖戦」の弾丸よけ的存在でしかなかった。すなわち、日本人の誰もが忘れかけていた「植民地兵士」だったからである。

戴国輝 「台湾と日本人」 「元皇軍補助兵士中村輝夫の生還から」 P193

戦争芸術を見ること

 プロフィールにもある通り、私は美術館巡りをするのが好きなのですが、戦争芸術を見ること、語ることは相当ハードルが高いなと思いました。そもそも芸術作品は多面的かつ創造性をどう理解するのか、という側面が強く、今回紹介した作品も、プロパガンダの側面が強いとは言え、画家の個性や創造性についてどう考えるのかという視点への理解が足りているのか、という思いがしました。

 その意味でも、東近美が今回の企画展を行うにあたって、広報活動について消極的であったことは残念でしかありません。ただ、1977年において企画展それ自体が中止になったことと比べると、一歩前進であると言えるでしょう。今後は、様々な場面で歴史認識に留まらない多面的な形での企画展が行われることを願ってやみません。

 また、昨年1月20日には専修大学で新井勝紘氏による「関東大震災  描かれた朝鮮人虐殺絵を読み解く」という講演が行われました。(※2)その中で関東大震災当時の朝鮮人虐殺を描いたとされる小学生の絵、河目悌二、菅原白洞、堅山南風、大原弥市らの絵が紹介されました。戦争と同様、朝鮮人虐殺という負の部分を描いた作品ではありますが、負の部分について芸術はどう表現をしたか、また芸術作品について様々な観点からどのような評価がなされるか、関心を持っていきたいと思います。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) 山田昭次著「植民地支配・戦争・戦後の責任」の中から「満州の日本人農業移民と中国人・朝鮮人」を読む|宴は終わったが

(※2) 新井勝紘氏は関東大震災について、以下の本を出版をしております。

新井勝紘 「関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く」  新日本出版社


いいなと思ったら応援しよう!

宴は終わったが サポートいただいたお金については、noteの記事の質を高めるための文献費などに使わせていただきたくよろしくお願い申し上げます。