サイドミラーに映る影
あれは、去年の十一月半ばのことだったと思います。
妻と、当時七歳になる息子を連れて、少し離れた郊外の山間部にある日帰り温泉施設に行ったんです。いわゆる「家族風呂」が数室あり、週末ともなれば深夜まで客足が絶えない人気の鄙びたところでした。あの一帯は水が綺麗で有名で、のんびりとお湯に浸かって日頃の疲れを癒やすには絶好の場所だったのです。
帰りはもう夜の十一時を回っていました。山の中ですから、ポツポツと古い街灯はあるものの、その灯りの届かない木立の隙間などは、吸い込まれそうなほど周囲が真っ暗でした。頼りは車のヘッドライトの明かりだけで、対向車も全く走っていないようなワインディングロードを、私が運転して下っていました。
助手席では妻がスマホをいじり、後部座席では息子が温泉の心地よい疲れですでに眠り込んでいました。車内はお気に入りの音楽が小さく流れているだけで、非常に静かでした。
急なカーブを曲がりきった瞬間、ヘッドライトの光の輪の中に、ふと「人影」が浮かび上がりました。
ぐんにゃりとベコベコに曲がったガードレールの切れ目に、二十代くらいの若い男が、ぽつんと佇んでいたのです。
こんな深夜の、しかも民家すら無い山の中に人がいるはずがないので、最初は何か動物の見間違いかと思いました。
その青年は、季節外れの薄着――こんな凍てつく夜気の山中にいることが信じられないような格好でした。その異様な軽装こそが、何よりも不気味でした。
すれ違う時は、今の何だ? と驚きすぎて声が出ませんでした。頭の中で思考がぐるぐると巡り、あれは本当に人だったのだろうかと、現実感が揺らぐような感覚だけがありました。
助手席の妻も同じように一瞬驚いて思考停止していましたが、やがて「……今の、何?」と、かすれた声で呟きました。
すれ違いざまにちらっと視界に入ったその顔は、
夜の闇とは違う「真っ黒」に塗りつぶされているように見えました。
「……怖い!!早く行こう!!」
隣の席で、妻が半泣きになりながら叫んだ。
私も背筋を這い上がる凍てつくような悪寒に震え、一刻も早くこの場を離れようと、震える手でハンドルを握った。
すれ違いざま、車内の空気が一瞬にして冷たくなり、腐臭を含んだ強烈な土の匂いが鼻腔を突き刺す。
狂ったように鳴り響く心臓の音を無視して、私は恐怖に駆られるままサイドミラーをチラリと覗き込んだ。
――スーッと、不気味な人影が私たちの車について来ている。
私はもう、それ以上思考する余裕すらなく、悲鳴を押し殺しながらアクセルを踏み込んだ。
とにかく必死に山道を下りました。
どれくらい走ったでしょうか。
ようやく山道を抜け、麓の町の明るい灯りが見えた瞬間、私は安堵し、大きく息を吐いた。
ロードサイドにあったコンビニの駐車場に車を滑り込みさせた。助手席の妻が、ぐったりとシートに寄りかかりました。私も荒い息を整えながら、ガラス張りの店内で客がレジに並んでいる日常的な光景を見て、ようやく生きた心地がしました。
後部座席を振り返ると、息子は疲れた様子でぐっすりと眠り込んでいました。車内にはおかしなものなど何もなく、ただ冷えた空気が残っているだけでした。
車を降りて冷たい缶コーヒーを買い、妻と二人で「あれ、なんだったんだろうね……」と青ざめた顔で言葉を交わしました。あの影が追いかけてきたのも、恐怖のあまりの幻覚だったのだろうと、無理やり自分たちを納得させました。
結局、警察には連絡していません。あんな山の中で、ただ通りすがりに奇妙なものを見たというだけでは、誰も取り合ってくれないと思ったからです。
ただ、それ以来です。街灯が少なく、木立が鬱蒼と茂る夜の山道が苦手になりました。
夜の山道には、どうか気を付けてください。何を見ても決して振り返ってはなりません。
