「他者」と出会うこと

他者と出会い、存在を肯定すること。存在の意味を決めないこと。他者を排除しあるいはコントロールしようとするのではなく他者と出会うこと。他者との出会いに自分を開くこと。そういう意味での「他者」を認めない社会、「他者」と出会えない社会にますます傾いているようで。

「他者」を簡単に分かったつもりになるあるいはレッテルを貼って決め付けて分かったことにする。そして、叩きあるいは排除しようとする。本当は理解が難しく不可能かもしれない「他者」と出会うことで自分がかき乱され変容する。

ただ、身近な人ですら、否身近な人だからこそしばしば「他者」を見ることに失敗し出会い損ねる。互いに分かったつもりのまま進む。当人同士は意識していなくても、儀式化、演技化している。あるいはそれが一方通行で、一方はわかったつもりになって押し付け、他方が苦しみ続けることもある。

身近な関係でもそうであるのに、より広い関係、社会空間では、なおのこと「他者」との出会い損ねが積み重なり、その裏面としての類型化、ラベル貼りが様々な水準で行われる。個々人はそういう類型やラベルの束として、諸属性の束としてアイデンティティが想定される。

そうやって相手にアイデンティティを付与しコミュニケーションを通じて更新をしていけるのであればそれは社会生活の円滑化のための知恵であるとは言えなくはない。しかし、しばしば「他者」との出会いを拒絶することは、相手に貼り付けるアイデンティティ=イメージを固定化することにつながる。

特に、特定の属性に反応、着目することで先入観、歪んだフィルターを通して決め付けてしまうことが起こる。それ以上理解すること、イメージを更新することを拒み、その決め付けに固着してしまう。そうして、しばしば当人も無意識のまま差別、排除をすることになるし、そこには既に権力の非対称がある。

一方で、差別、排除されようとする側が、これもしばしば無意識の生存戦略として、貼り付けられるアイデンティティ=イメージを「積極的」「自発的」に引き受けることで適応し場を占めようとすることが起こる。そうすることで差別・排除されていない、無力でないと合理化する/させられる。

そうして「自ら」アイデンティティを引き受け適応した者が共通の属性を持つ者を叩き、差別・排除するようなことも起こるが、自分が過剰適応しそれを合理化していることには無意識的だから、それを否認し続けるかのように攻撃が激しくなりがちだ。

そもそも、差別、排除されようとして過剰適応する者だけでなく、差別、排除する者も自らの正当性そしてアイデンティティが揺らぐ不安、恐怖を否認し続けるかのように「他者」との出会いを拒み、相手に貼ったラベルに執着し、扱いを変えず、攻撃を加える。

抽象的に書いてきたけど、今起こっているいろいろなことに、この重苦しさ、息苦しさに思いを巡らせていた。そこかしこで狭量さがますます暴力性を帯びていることについて、自ら物理的な暴力を行使せずとも言葉で命を奪い得る、命を危険に晒す状況をもたらし得ることについて。

あるいは、即座に命は絶たれなくても、じりじりと削られていくこと、身体が精神が侵食されていくこと。そういう状況を言葉がもたらし得ること、あるいは、そういう状況から脱出する道を言葉が閉ざし得ること。

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