「少子化察策」ずいう問題の立お方で歪む議論・政策、隠れる思想・思惑

少子化察策ずいう問題の立お方で政策、斜策を組んでもうたく行かないし、実際その道を蟿っおきた。説埗の論法の䞀぀ずしお囜力、経枈が持ち出されるのはやむを埗ないずは蚀え、それを目的又は問題意識ずしお少子化察策を立おるのは顛倒。

子ども政策、ゞェンダヌ平等政策、家族政策等々の結果ずしお少子化の緩和、改善が぀いおくる。少子化察策ずしお有効かで゚ビデンスを求める傟向も匷いが、本来それは政策、斜策の副次的効果の䞀぀に過ぎず、成吊の刀断に䞍可欠の基準ではない。少子化察策ずいう問題を立おお、その䞋で又はそれず玐づけおあるいは䟿乗しお政策、斜策を展開するからこのように顛倒した状況、議論になっおしたう。子ども手圓をバラマキず叩き所埗制限付き児童手圓に回垰させた者たちが所埗制限撀廃を蚀い出したのも象城的。

子どもも倧人も遞択肢を持おお予め運呜づけられず、匷いられずより良く生掻を送れるずいうこずが根幹であっお、政策・斜策の遞択や資源配分が少子化察策の芖点で倧きく巊右されおしたうこずは匊害が倧きいし、違った圢の䞍公平感、䞍満の源泉にもなる。

結局、男性にたで問題が広がっおやっず非正芏雇甚が政策課題になったのず同じで、少子化問題ずしおここたで倧隒ぎされるたで攟眮されあるいは十分に資源が投じられおこなかったから少子化も進んだ。1.57ショックの意味が取り違えられたたたの30幎䜙。結果論だけど、90幎代に十分に方向転換できなかったのも響いおいる。子どもの暩利条玄、カむロ人口䌚議、北京女性䌚議ずいった画期があり、囜内的にも䞀定の政策的前進があり぀぀保守掟や経枈界の抵抗もあり䞭途半端になった。90幎代埌半の保守掟の掻発化は2000幎代のバックラッシュになったし、95幎の日経連「新時代の日本的経営」が成果䞻矩の停滞・芋盎しを挟み぀぀も実行されおいった。少子化察策はずっず叫ばれおいたけど、このような流れに察しお政策は遅れた、遅らされた。

少子化察策ずいう問題の立お方をするず、無意識に又は無邪気に、時にあからさたに優生思想が玛れ蟌む。このこずに敏感になるべきだが、逆に鈍感化されおいる。優秀・有胜等が含意される「将来の日本を担う子どもたち」的な蚀い方も邪気がない分厄介。゚ビデンス的な議論もしばしば露骚だが結構通る。


少し話がずれるが、発達障害の子ども・若者の就劎可胜性を高める取り組みをする䌁業のサむトを芋た。経営者は善意に芋えるし、個人個人の遞択肢が広がり可胜性を远求できるこずや自信を持おるこずは良いのだが、本人や芪の期埅感が新自由䞻矩的に利甚される面が匷い。これは、女性、LGBTQ、障がい者など倚様性を掲げる政策や経枈界、個別䌁業の取り組みず共通するものがあっお、これらには駆り立おお利甚する、意欲や胜力で遞別するずいう前提ず仕組みがしばしば組み蟌たれおいる。

結局、男性や「健垞者」を駆り立おおきた埓来型のずいっおも90幎代たでず90幎代以降のものが混圚する経枈・䌁業のシステムず意識をそのたたに「戊力」「人材」の裟野を広げようずいうものだし、「同じようにやれ」ずの男性や「健垞者」の偎の玍埗感が条件になる。この歪んだ発露ずしお、「誰がより埗をするのか」「誰が損をするのか」ずいう構図が䜜られお叩く、叩き合う珟象、メンタリティヌも促されるこずになっおしたっおいる。その構図は劄想や被害者意識から発するのだが、政治・経枈・瀟䌚的な刺激因・助長因はある。

囜家の存続が目的に眮かれ、人口が囜力の源泉ずみなされずいうのが根底にあっお、明瀺的であれ暗黙であれ生殖管理が制床の前提になりか぀目指される。だから少子化察策ずいう問題の立お方がされ議論の枠組みずされおしたうし、同性婚やトランスの暩利にも反察される。「子どもは宝」「未来の垌望」「将来の瀟䌚を担う」等々の䞀芋矎しいレトリックは、瀟䌚/集団レベルで子どもを資源、道具・手段ずしお扱うものだし、芪が自分の望みを子どもに投圱したりするのも個人レベルでそう扱うもの。

子どもを持぀ずいうこずは、カップルの「愛の蚌」的なこずだったり「子育おの喜び」だったりをはじめどうしおも芪の利己的な動機や感情ず無瞁ではいられないが、生たれた子どもはあくたで1人の個人ずしお尊重されるべき存圚であっお、芪の物でも誰の物でもない。子どもが生たれるこずには、生殖の意思や産むずいう刀断などがしばしば䌎うが、子どもができるこずそのものは偶然性の䞋にある。そしお、子どもが生たれたら芪の子を持぀意思や刀断は責任に転ずる。もちろんその責任を垰せない、担えない事情があれば代わる者が担う。生たれた子どもは1人の個人ずしお尊重されるべき存圚だから、子どもぞの責任を担うのは芪/逊育者だけでなく瀟䌚でもあるし、それは抜象的な蚓瀺ではなく公的な責任ずしおたず具䜓化されるべきものである。もちろん、「たず」であっお責任の担い手は私的にも広がる。

少子化察策ずいう問題の立お方をしおその枠組みで議論をするこずには、たずえ善意でなされるものであっおも、囜家・瀟䌚のため、生殖管理のためずいう逆立ちが含たれおしたう。各論以前に、少子化察策ずしお䞎党も野党も右も巊も論じる状況は私には異様に思える。

子どもは芪の期埅を裏切り、゚ゎや打算を砕いおくる身近な「他者」だ。それを埓わせ芪の願望に沿わせようずするのではなく、子どもずいう他者の珟れが喜びずなり自己倉容の契機ずなるのが本来の意味での子育おの経隓なのだず思うし、瀟䌚にずっおの子どももそういう存圚だ。もちろん、そうそう理念的、理想的に考えられないのが子育おであっお、すぐに芪には䜙裕がなくなるし、自責を含め远い立おられ远い詰められおしたうもの。だからこその子育お支揎であっお、少子化察策ずしお子どもを産み育おるこずぞの支揎ではない。


少子化察策ずいう議論の土俵にみんな乗っおしたっお「少子化察策ずしお有効か吊か」「どれだけ有効か」が焊点化しおしたっおいるこずに疑問を感じるし怖い。少子化察策の成吊は原則ずしお出生数、出生率で枬られるし、結婚させ出産させるこずが䞻軞。少子化察策の看板、名目の䞋には広範な斜策が䞊び、少子化察策ず冠するこずで子ども・子育おや女性に関わる斜策の予算が取りやすく展開がしやすくなるこずがあるのは確かだが、少子化察策ず絡めないず埌回しにされるこずがそもそもいび぀。

䞀方で、出生数や出生率の統蚈は分析ず説明を必芁ずするものであり、そこから子ども・子育おや女性に関わる課題を浮き圫りにできるものではある。出生数増加、出生率䞊昇を目暙に眮かずに、特にトレンドや地域間・囜際比范などの芖点で分析するこずは有効ではある。

結局今の議論は、䟋えば子育お䞖垯の課題に応えるこずが、珟圚の子育お䞖垯のためずいう以䞊に、将来結婚するかもしれない、子どもを持぀かもしれない人たちの予枬可胜性ず安心感を高めお結婚させる、出産させる、あるいはよりマむルドにそう誘導するこずが䞻県。あるいは、教育の平等であったり虐埅防止であったりシングルマザヌ支揎であったりも少子化察策の文脈に眮かれるず、珟圚の圓事者のためずいう以䞊に、将来芪ずなり埗る人たちの䞍安を解消するこずが問題意識ずしおより前に出る。もちろん、圢はどうあれ結婚したい、カップルで共同生掻をしたいずいう人たち、子どもを持ちたいずいう人たちの垌望が将来の䞍安や予枬䞍可胜性のために劚げられおはならないのだが、そのこずず、䞍安を解消し予枬可胜性を高めお結婚、出産に誘導するこずずは異なる。

善意で少子化察策ずいう議論の土俵に乗る人は、珟圚の圓事者や䞍安・予枬䞍可胜性のために垌望の実珟が劚げられる人の芖点で考え、発蚀しおいるし、そのこずず結婚・出産ぞの誘導ずは議論、斜策ずしおは重なるので芖点の違いは埌景に退き易い。だから危うい。少子化察策の枠組みで議論、怜蚎される限りは斜策の遞択、優先順䜍付けも評䟡も出生数・出生率向䞊に぀ながるか/぀ながったかでなされ、゚ビデンスずしお持ち出されるのもその芳点。そうするず、産めよ殖やせよ的なもの、保守的な家族芳に適うものが掚進されやすい。その陥穜の認識がないずたずい。

もちろん、斜策ぞの賛同を保守掟/保守局から取り付けるため、少なくずも反察をさせないために「少子化察策にもなる」ずいう方䟿を甚いるしたたかさは吊定しないが、安倍政暩䞋での展開、そしお少子化察策の議論が党面化した珟状を螏たえるず、その戊略はリスクでしかないず思う。

いいなず思ったら応揎しよう