太宰治『斜陽』―滅びの美徳を捨てて生き抜くエゴ
最近、自分が大切にしてきた価値観や古き良きものが、時代の変化とともに静かに崩れ去っていくような感覚を覚えることがある。40歳にもなると、世間のスピードについていけず、自分の居場所が少しずつ減っていくような心細さを感じるのだ。
そんな折、ふと手に取ったのが太宰治の『斜陽』だった。戦後の混乱期、滅びゆく貴族=「斜陽族」の姿を描いた不朽の名作だ。ただ、この本を「切ない滅びの美学」として片付けるのには、昔からどうにも違和感があった。本当のテーマは「美しく死ぬこと」ではなく、「泥をすすってでも生き直すための壮絶なエゴ」なんじゃないか。今夜はそんな視点から、この物語を紐解いてみたい。
作品のあらすじ
終戦直後、それまで暮らしていた東京の屋敷を失い、伊豆の小さな山荘へと引っ越してきた母と娘のカズ子。そこは、緑に囲まれた静謐な場所だったが、同時に二人が「没落貴族」として世間から取り残されていく終着駅でもあった。
母は、どれほど貧しくなっても気品を失わない人物だった。朝の食卓で、澄んだスープをスープ皿からふわりと一口すくう動作ひとつ取っても、そこには長年の洗練された美しさが宿っていた。カズ子はそんな母を「日本で最後の貴婦人」と敬愛し、彼女の存在そのものが家の中の光だった。
しかし、その静寂は不吉な記憶とともに陰りを見せる。かつて父が亡くなった日、庭の薪の束の中に産みつけられていた蛇の卵を、カズ子が知らずに焼いてしまったことがあった。母はそれを自分のせいだと深く悲しみ、それ以来、屋敷の周りに現れる蛇を恐れるようになった。蛇は、この家に忍び寄る「死」と「破滅」の象徴だった。
そこへ、南方の戦地から弟の直治が復員してくる。直治は戦前の学生時代から麻薬「パビナール」に溺れ、東京の退廃的な作家・上原のもとで酒と悪事に身を投じていた。復員後もその荒んだ生活は変わらず、伊豆の山荘に居座りながら金をせびり、母やカズ子に怒声を浴びせる日々が始まった。
「姉さん、僕は苦しいんだ。自分が何者なのか、わからないんだよ」
直治の叫びは、古き良き貴族の教養を持ちながら、戦後の労働者の世界にも馴染めない若者の狂気そのものだった。
やがて、母の体に病魔が忍び寄る。結核だった。山荘の薄暗い寝室で、母の顔色は日ごとに青白くなり、激しい咳とともに血を吐くようになる。ある秋の夕暮れ、母はカズ子の手を握り、消え入るような声で呟いた。
「カズ子……お母さんはね、やっぱり、ここでおしまいになるのね」
母は最後まで気品を保ったまま、静かに息を引き取った。本物の貴族としての美しさを保ったまま滅びていくこと。それは、母に残された最後の特権でもあった。
母の死によって、カズ子の中に眠っていた何かが弾けた。ただ美しく滅びを待つだけの人生なんて、まっぴらだ。生きなければならない。だが、どうやって?
カズ子が選んだのは、「道徳の破壊」だった。彼女は直治の師である既婚の作家・上原に情熱的な手紙を書き始める。上原を「M.C.(My Chekhov、私のチェーホフ)」と呼び、自分の恋心と、彼の子を産みたいという衝動をぶつけた。
「人間は、恋と革命のために生まれてきたのだ」
カズ子は身一つで東京へ向かい、酒と女でボロボロになっていた上原の泥酔する居酒屋へと足を踏み入れる。煤けた天井、酒の匂い、粗野な男たちの罵声。かつての華やかな生活とは真逆のその場所で、カズ子は上原に抱かれた。それは甘いロマンスなどではなく、破滅へと向かう男から「命の種」を奪い取るような、必死の生存本能だった。
同じ頃、山荘では直治が遺書を残して自殺を遂げていた。直治の遺書には、こう書かれていた。
「僕は、貴族です。……僕には、誇りがあるから、生活ができないのだ。僕は死にます」
貴族としての繊細な誇りを捨てきれず、戦後の現実に敗北した直治。そして、母もまた優雅なまま去った。
取り残されたカズ子は、お腹の中に宿った新しい命を感じながら、一人山荘に立つ。彼女は上原の妻に宛てて手紙を書く覚悟を決めていた。世間から見れば、不倫によって身ごもった「破廉恥な女」だろう。しかし、カズ子の心には一点の迷いもなかった。
「私は戦うのです。古い道徳とたたかい、美しい子を産み、育てていきます」
戦後の焼け跡の中で、ひとりの女が「滅びの美」を投げ捨て、泥まみれの「生きるための革命」を開始したのだった。
古い自分を殺さなければ、新しい朝は来ない
あらすじを読んでみて、どう感じただろうか。
『斜陽』は一見すると、美しい母の死や、直治の繊細な悲劇に目が行きがちだ。彼らは確かに戦後の新しい世界に適応できず、美しく絶滅していった恐竜のような存在だった。だが、この物語の本当の恐ろしさは、主人公であるカズ子の「生き残りへの執着」にある。
カズ子は、母という「最後の貴婦人」の死を見届けたあと、それまでの品格や旧来の道徳を一切合切捨て去る。人様の夫である上原を奪い、未婚の母となることを選ぶのだ。これは純粋な愛の物語などではない。自分の「生」を繋ぐために、他人の家庭を壊し、世間の倫理を足蹴にする、極めてエゴイスティックな決断だ。
だが、僕はそのエゴを責める気にはなれない。むしろ、人間が本当の意味で「再生」しようとするとき、人は誰しもこれくらい醜く、身勝手にならざるを得ないんじゃないかと思うんだ。
優雅なまま死んでいった母や、美学に殉じて自殺した直治は、ある意味で「楽な道」を選んだのかもしれない。自分を壊さずに済むからだ。しかし、生き続けるということは、自分の中の「正しい部分」や「綺麗な部分」を削り落とし、泥をかぶる覚悟を持つということなのだろう。
カズ子の「恋と革命」とは、キラキラした言葉とは裏腹に、過去の自分を惨殺してでも生き直そうとする血みどろの悪あがきだったのだ。
川上の独り言
僕たちも日々の生活の中で、「昔はよかった」とか「こんなはずじゃなかった」と、滅びゆく自分の立場や過去の栄光にしがみつきたくなる瞬間があるだろ?(いや、僕だけかもしれないが)
でも、本当に新しい生き方を手に入れようと思ったら、誰かに顔を眉をひそめられようが、古い自分や世間の道徳を一度粉々にぶち壊すしかないのかもしれない。『斜陽』を読むと、生きるということは、本質的に少しばかり「不道徳」なことなんじゃないかと思えてくるんだ。
君なら、美しく滅びる道を選ぶだろうか。それとも、泥を塗ってでも新しい明日を奪い取る道を選ぶだろうか? 酒の肴に、今度ゆっくり教えてほしい。
