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「斜陽」に見た、貴族の虚無と現実逃避

やあ、久しぶり。川上だ。最近、ふと「人間って、結局何のために生きてるんだろう?」なんて、そんな哲学的な問いに囚われがちでさ。特に、SNSなんか見てると、キラキラした投稿の裏に隠された虚無感とか、必死に「普通」を演じようとする焦りとか、そういうのが透けて見えて、なんとも言えない気持ちになるんだ。

そんな折、ふと手に取ったのが、太宰治の「斜陽」。この小説、なんというか、現代の僕らが抱える「虚無」とか「現実逃避」の原型が、すごく濃密に描かれている気がするんだよな。特に、かつて栄華を極めた貴族が、その過去の栄光にしがみつきながら、移りゆく時代に取り残されていく様は、今の「見えない階級」に囚われた人たちの姿にも重なる部分があるんじゃないか、なんて思ったりもして。今回は、この「斜陽」に隠された、貴族の虚無と現実逃避の深淵を覗いてみようと思う。

作品のあらすじ 


物語は、主人公である「かず子」の視点から語られる。彼女は、かつて華族として名を馳せた旧家の娘だったが、父の死を境に、その家は加速度的に没落していく。東京の広大な屋敷も、もはや往時の面影はなく、留守を預かるのは、このかず子と、奔放で退廃的な弟・直治、そして、病弱な母の三人だけ。そんな中、かず子は、かつて父に仕えていた作家「上原二郎」に、次第に惹かれていく。

ある日、かず子は、実家で母が読んでいる雑誌の記事を目にする。「世界を風靡したあの女優も、その昔は!」。そこに載っていたのは、かつて父の愛人だったという、かつての有名女優の写真だった。「ああ、母が、父が、そして私も、皆、あの女優のように、過去の幻影に酔って、現実から目を背けているだけなのかもしれない」。かず子は、そんな自嘲に似た感情に襲われる。

母は、病床で「直治は、あんな風に奔放すぎて、どうにもならないわ。でも、あの純粋さだけは、失わせたくはないの」と、かず子に訴えかける。しかし、その「純粋さ」という言葉の裏に隠された、母の諦めとも取れる響きを、かず子は感じ取っていた。直治は、夜な夜な友人を連れ込んでは酒を飲み、歌い、騒ぎ、そして、その挙げ句に、自殺未遂を繰り返す。かず子は、そんな弟を心配しつつも、どこか他人事のように見守っている自分がいた。「彼を救いたい」という気持ちと、「どうせ破滅するなら、いっそ徹底的に破滅させてしまえばいい」という、倒錯した感情がせめぎ合う。

そんな折、上原二郎から手紙が届く。「君の母上は、僕の恩人です。君たちの母子を、僕の田舎に連れて行って、静かに暮らしたい」。かず子は、この申し出に、一種の解放感にも似たものを感じる。しかし、同時に、かつての栄光にしがみつく母の姿も目に焼き付いている。「大丈夫よ、お母様。私たちが、きっと、うまくやりますわ」。しかし、その言葉は、あまりにも空虚だった。

上原二郎との再会は、かず子にとって衝撃的なものだった。彼は、かつて理想の作家としてかず子が崇拝していた姿とはかけ離れ、どこか人間的な弱さや、退廃的な魅力を放っていた。二人は、互いの孤独を埋めるかのように、急速に親密になっていく。しかし、その関係は、決して純粋な愛とは呼べなかった。かず子は、上原二郎に、かつての父の面影を見ていたのかもしれない。そして、上原二郎もまた、かず子の中に、自分自身の救いを求めていたのではないか。

直治は、ますます破滅への道を突き進む。彼は、ある日、かず子に告げる。「姉さん、僕、もう、この世にいるのが嫌になったんだ。あの、古い屋敷にも、もう、うんざりなんだ」。そして、彼は、遂に自らの命を絶ってしまう。その死は、かず子にとって、大きな衝撃であり、同時に、ある種の決別でもあった。弟の死をきっかけに、かず子は、過去の幻想から目を覚まし、現実と向き合うことを決意する。

しかし、現実というものは、そう甘くはなかった。母もまた、直治の死をきっかけに、急速に衰弱していく。そして、かず子は、愛する上原二郎にも、ある秘密があったことを知る。彼は、かず子を愛していたのではなく、ただ、彼女の裕福な家柄を利用しようとしていただけだったのだ。その事実に気づいた時、かず子の心は、深い絶望に包まれる。「私たちは、皆、虚像にしがみつき、真実から目を背けてきただけだった。そして、その代償は、あまりにも大きかった」。

それでも、かず子は、生きることを諦めなかった。彼女は、残された財産を元手に、新しい人生を歩み出すことを決意する。しかし、その道は、決して平坦ではなかった。彼女は、かつての栄光を捨て、一人の女性として、自らの力で生きていくことを選んだのだ。その選択は、太宰治が描いた、破滅と再生の物語の、一つの結末と言えるだろう。

川上の独り言 


「斜陽」、読み終えて、なんだか胸に重いものが残ったよ。特に、あの没落していく貴族たちの姿って、現代社会の僕らにも、どこか他人事じゃない気がしてならないんだ。SNSで、みんな必死に「いいね」を稼いで、誰かの「いいね」を求めている。それは、かつての貴族たちが、その「家柄」とか「血筋」とか、そういう見えない「階級」にしがみついていたのと、どこか似ているんじゃないかと思うんだ。

かず子も、弟の直治も、そして母も、みんな、過去の栄光にしがみつきながら、現実から目を背けていた。その虚無感、焦燥感。あれは、現代に生きる僕らも、少なからず感じているものじゃないか?「普通」でいることの息苦しさとか、「成功」という名の幻想を追い求めることの虚しさとか。

ただ、この小説のすごいところは、そんな虚無感や現実逃避の先に、ただの絶望だけを描いていないところなんだ。かず子は、最終的に、すべてを失いながらも、再び立ち上がろうとする。それは、皮肉な現実なのかもしれないけれど、人間っていうのは、そういうもろさや弱さを抱えながらも、それでも生きていくしかない存在なんだ、ということを突きつけられているような気もする。

結局、僕たちは、何かしらの「幻影」にしがみついて生きているのかもしれない。それは、恋愛かもしれないし、仕事かもしれないし、あるいは、SNSの「いいね」の数かもしれない。でも、その幻影が剥がれ落ちた時に、それでも「生きる」ということを選べるのか。それが、この小説が、僕らに問いかけていることなんじゃないかと思うんだ。君はどう思う?
<tags>#文学 #太宰治 #斜陽 #虚無感 #現実逃避 </tags>



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