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「恥」という名の透明な牢獄

近頃、居酒屋で隣の席の若者が「自分らしく生きたい」なんて漏らしているのを聞くと、少しばかり苦笑いしたくなる。自分らしく、か。いい響きだが、俺たち日本人がその「自分」ってやつをどこに置いているか、考えたことはあるかい?

実は最近、改めてルース・ベネディクトの『菊と刀』を読み返していたんだ。第二次世界大戦中、アメリカが「得体の知れない敵」である日本人を理解するために、一歩も日本に足を踏み入れずに書き上げた、あまりにも有名な日本人論だ。

前回の記事で『コンビニ人間』の「マニュアル」の話をしたけれど、この『菊と刀』は、そのマニュアルがどこから来たのかを解き明かす、いわば俺たちの設計図みたいな本なんだ。なぜ俺たちはこうも「空気」を読み、誰かに見られているような強迫観念に駆られて生きているのか。そのヒントが、この古い本の中に詰まっているんだよ。

作品のあらすじ 


この本は物語じゃない。けれど、ベネディクトが描いた「日本人」という名の登場人物が、いかに奇妙で、いかに一貫性のない、それでいて強固な論理の中に生きているかを追っていくと、そこには壮大な悲劇のドラマが見えてくる。

例えば、戦時中のある戦場での光景を想像してみてくれ。
アメリカ軍の捕虜となった日本兵がいる。彼はそれまで「生きて虜囚の辱めを受けず」という教えを叩き込まれ、死ぬまで戦うのが当然だと思っていた。ところが、一度捕虜になってしまえば、彼は一転してアメリカ軍に協力的になる。軍事機密をペラペラと喋り、道案内まで買って出るんだ。
「昨日まで死ぬ気で戦っていた相手に、なぜそこまで尽くせるんだ?」
アメリカ軍は困惑する。裏切りか、あるいは洗脳か? 
だが、ベネディクトは指摘する。彼にとっては「死ぬまで戦う」というルールが失効した瞬間、新しい環境での新しいルール、つまり「親切にしてくれる相手に報いる」という行動原理にスイッチしただけなのだと。

また、ある日本の家庭での一幕だ。
母親が幼い子供に言い聞かせている。「そんなことをしたら、近所の人に笑われるわよ」。
この言葉には、西洋的な「それは悪いことだからしてはいけません」という神や良心への訴えかけがない。あるのはただ一つ、「他人の目」という審判だけだ。
「ねえ、お母さん。誰も見ていなければ、何をしてもいいの?」
子供の問いに対し、母親は答えられない。なぜなら、この社会には「誰も見ていない場所」なんて存在しないからだ。世間という巨大な目が、常に背中に張り付いている。

さらに、「恩」という名の重すぎる借金についても語られる。
かつて、ある男が恩人に助けられた。彼はその恩を返すために一生を捧げる。
「これは私の『義理』ですから」
男はそう言って、自分の幸福や家族の時間を犠牲にしてまで、恩人のために奔走する。周囲はそれを美談として讃えるが、その実態は「恩」という名の返済期限のない負債に縛り付けられた、精神的な奴隷状態だ。
「恩」は「着る」ものだが、それは温かい毛布ではない。一度袖を通せば、二度と脱ぐことのできない、重い鉛の鎧のようなものなのだ。

そして「義理」。これはさらに厄介だ。
自分の名前を汚されたと感じた時、日本人は「義理を果たす」ために復讐に走るか、あるいは自ら命を絶つ。
「アイツにあんなことを言われた。もう外を歩けない。死んでお詫びするしかない」
誰に謝るのか? 神にか? 自分の魂にか? 違う。「世間」に対してだ。
ベネディクトはこれを「恥の文化」と名付けた。内面的な「罪」の意識ではなく、外部からの「嘲笑」への恐怖が、日本人の倫理を司っている。

物語のクライマックスは、敗戦の瞬間だ。
昨日まで「鬼畜米英」と叫んでいた国民が、天皇の一言で「平和国家」へと一斉に舵を切る。マックアーサーを英雄のように迎え入れ、チョコレートを求めて列を作る。
この豹変ぶりを、西洋人は「節操がない」と笑うかもしれない。けれど、日本人にとっては、それが「階層制」というマニュアルに従った、極めて誠実な行動だったんだ。
「上の者が決めたのなら、それに従うのが正しい順序だ」
そこには個人の意志も、過去への葛藤も入り込む余地はない。ただ、新しい「型」に自分を嵌め込む作業があるだけなんだ。

川上の独り言 


どうだい、この「あらすじ」を読んで、今の俺たちの生活と無関係だと言い切れるかな。

ベネディクトが指摘した「恥の文化」は、現代のSNS社会でさらに先鋭化している気がするんだ。炎上を恐れ、誰かに「いいね」と言われることで自分の価値を確認する。俺たちは今も、スマホという窓を通じて「世間様」の視線を常に持ち歩いている。

俺がこの本を読んで一番ゾッとしたのは、日本人の美徳とされる「恩」や「義理」が、実は個人を縛り付け、思考を停止させるための巧妙なシステムとして描かれている点だ。
「恩があるから断れない」「義理を欠くわけにはいかない」
そんな言葉で、俺たちは自分の本当の望みを押し殺してこなかったか?
40歳にもなって独身でいると、親戚の集まりなんかで「親不孝」なんて言葉を投げかけられることがある。それもまた、一種の「恩」の強制だよな。産んで育ててやったんだから、孫の顔を見せるのが「義理」だろう、というわけだ。

でもさ、もし俺たちが「恥」を捨て、「罪」さえも神との契約にすぎないと切り捨てたら、何が残るんだろう。
ベネディクトはこの本を「日本人は、菊(優雅さ)と刀(攻撃性)の両極端を併せ持つ、捉えどころのない国民だ」と結んでいる。
けれど俺には、そのどちらもが「自分」という核を持っていないことの裏返しに見えて仕方ないんだ。中身が空っぽだから、その時々の「型」に依存しなきゃ生きていけない。

居酒屋で「自分らしく」なんて言っていた若者も、会社に行けば「義理」で残業し、飲み会では「空気」を読んで愛想笑いをしているんだろう。
結局、俺たちは戦後から何も変わっていないのかもしれないな。
この透明な牢獄の中で、どうやって呼吸をすればいいのか。それを考えるのが、俺たち研究者気質の「陰キャ」に残された、唯一の自由なのかもしれない。

おっと、つい酒が進んで語りすぎてしまった。
君はどう思う? 自分の背中に、誰かの視線を感じたことはないかい?

じゃあ、今日はこの辺で。また次の本で会おう。



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